0514「アニポケサンムーン」

 アローラ!

 最寄りのレンタルショップが潰れたこともあり元々何かしらの月額制の動画見放題サービスに加入したいと考えていたのだけれど、このたびアマゾンを利用する際アマゾンプライムのおいそぎ配達を無料体験に乗っかって一ヶ月ほど無料でアマゾンプライムを体験してみることにした。
 元々は映画を観たいというのが根本にあったのだけれど、休日ならともかく平日では腰を据えて映画を観る、という時間と気合いがなかなか無く、とはいえそんなことを言っていたら気付かぬうちに無料期間が過ぎてアマゾンプライムが良いのか悪いのかを判断する間もなくまた悩みそうなので、昨日から見始めた。ポケモンサンムーン。
 それほどせっかちな性格ではないのだけれど、アニメの三十分ですらじっくりと観るのがなかなか出来なくなっているので、風呂に入りながらだったり、調べ物とか作業している横でスマホで再生して観るながら視聴だったりではあるのだけれど、なんやかんやで九話くらい今のところ観ている。サンムーン、表情が豊かでいいですね。あと、サトシや仲間達がどんなことでも元気に「ありがとう」って言ったり「すごいな」って褒めたり「力になる」って背中を押したり、なんでしょうね、ストレートで底抜けの明るさに元気が出て、みんなとにかくかわいい。ながら視聴でもちょうどいい軽さ。でもその一方でニャビームーランドだったりモクロードデカバシ達だったり、ドラマ性もあったりして、ギャグとのバランスやだらけないテンポ感が絶妙。序盤だからかまだ技は単調だけれど、進んでいけば仲間も増えて技も増えて進化もあって濃密になっていくんだろうなー。創作の糧にもなるだろうという意図も込めて観ています。しかしアニポケをまともに観てるの本当何年ぶりなのか……。楽しいです。あとカキのCV石川界人には笑いました。あまりのイケメンボイスに何者だよと思ったら石川界人かよ……流石かよ……。ロトム図鑑のCV浪川大輔も笑いました。みんなかわいい。
 他にも観たいアニメは色々あるし過去のアニポケも観たい気持ちはあるんですが、ひとまずはリアルタイムで放送中のサンムーンに元気を貰いながら過ごそうかと。アマゾンプライムについては他にミュージックもちょっと見てみたりしているけどこれは追加課金をしないと満足した内容にはならないかなーという印象。まあぼちぼちと。
 明日も頑張っていきましょー。

0513「triとヤドンうどん」

 暗めの記事を書くとその時の自分の整理にはなるけど読み返すには不向きだ。暗い、というより自分の負の感情をそのまま打鍵するとなんというか恥ずかしいというか目も当てられない状態になっている感があって、まあ投稿した以上今のところ別に消すつもりはないけれど、こういうのは話題が他に浮かばない(つまり自分がどうにも疲れていたりする)時だったり気分がいまいちな時のそれだ。できるだけ暗い話題は避けたいとは考えているけれど、どうしてもそういうものしか出てこない場合というのもあるので、その時は引いた目で見守って欲しい。更新しないときは打鍵するほどの気力もなはいか課題で手一杯になっているか他の遊びに夢中になっている場合です。まあこれも遊びの一環なんだけど。

 昨晩から一泊二日で妹氏が遊びに来た。目的はデジモンアドベンチャーtriの第六章を観るためだった。デジモンに関してはなんというか、毎度そうなんだけれど、一緒に見に行く人とほぼすべて語り尽くして満足するので自分でわざわざ感想を書くほどの熱量は最早あまり残っていなかったりする。
 無印のデジモンは好きだし02も好きなので、ファンとして色々と許せない部分があったのは正直なところだし、さんざんぼこぼこに殴ってきたので今更どうというのもないんだけれど、十年以上も前の作品を一応は未来の形として(私はパラレルワールドとしてとらえているけれど)再び命を吹き込んでくれたのは有り難いことではあるのだと思う。けっこう派手な原作レイプをしてくれたなコノヤローという部分も割とかなりあるんだけど、でも第六章までで尺が足りないなりに頑張ってまとめていたというのは第六章で感じたし、第六章は素直に良かったと思う部分もあったし(最後だったからというのもある)、とあるヤマトとのいちゃいちゃシーン(語弊)の山口さん=ガブモンの演技があまりにも良かったし、最推しの光子郎は参謀らしい活躍を見せてくれたし、リブート関連とメイクーの云々は成程と思ったし、ハックモンの某台詞も良かったし、そして神がかったEDには胸が震えたし、何度も言うけど山口さんの演技と光子郎の活躍とEDは本当に良かったし……良かったんです……。私はあのエンドには納得しているし他にやりようはなかったと思っています(ただし太芽は申し訳ないけど絶対に認められない)。
 なんだかんだ第六章まで走り抜いたのは意地みたいなところがあるし、これがあるからこそそのたびに遊べたというのもあるので、感謝はあるしそれなりの喪失感もある。三年か四年くらいまたいだのかな。意図せず大学生活と共に歩んできた感はあるし、その間に和田さんが亡くなって……本当にいろんなことがあった。貶しながら、わくわくもしながら、怒りながらも、結局なんだかんだ楽しんでいたのだ。終わったのだ。複雑なさみしさ。まあどうも続編があるらしいけれど。その時はまた不安を抱えながらなんだかんだと劇場に足を向けるのだろう。
 何度も言うけど山口さんの演技と光子郎の活躍とEDは個人的に本当に良かったのでわからなくてもわかってほしい。
 EDはね……あれは仕方がないね……あれで占められれば何かを許してしまうような気持ちになってしまうね……。
 もしtri.に興味がある人に完走した人間から声をかけるのだとすれば、途中で投げず(投げたくなる気持ちもわかるけれど)観るのなら第六章、最後のEDまで観て欲しい、ということだ。そこまで観ないと話の繋がりが見えてこないというのもあるので……。
 語るほどの熱が無いといいながらちょっと語ってしまった、おかしいな。前述したけれどもう一回観る機会があるので、二回目でまたみえるものもあるだろう、何か残したくなったら書く。

 で、本当はデジモンのことはさらっと書いてうどんのことを記すつもりだったのに最早デジモンのこともタイトルに入れておかないとタイトル詐欺になりそうなので一応そのことも入れておこう。そういうわけでうどんについてなのだれど。
 妹が先月香川県に行ったらしく、香川では四月、エイプリルフールの一環みたいなものでうどん県ならぬ「ヤドン県」としてイベントをしていた。それに行ってきたお土産がこれである。

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 ヤドンうどんだ。

 インパクトが凄すぎると思いませんか。ピンクと白の讃岐うどん、二人前。見た目は桜うどんのそれで、あざやか、可愛らしい。ピンクのうどんは四分の三ほどあり、ヤドンのカラーバランスを彷彿させる。凝っている。うどんなので作るのは茹でるだけ、至って簡単。今日は映画だの本だのですさまじい出費をしたので食費が浮くのは非常に有り難い。冷蔵庫の中には傷みかけているわかめとカットねぎがあったのでそれらをつかってかけうどんにした。

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 具の量が多すぎてヤドンうどんの見た目はほとんどわからないという事故。器の割れた部分は気にしないでほしい。
 ピンク色は茹でると発色が濃くなり、コシの強さを思わせた。そういえば讃岐うどんを食べた記憶が殆ど無い私。するっと食べれるけれどもちもちとしたしっかりとしたコシのうどん。弾力感が印象的。わかめもねぎも大好きなのでたっぷり絡ませて、ずるずるっと美味しくいただいた。ヤドンというコンセプトがとても良い。ヤドン大好きなので。いい幸せのお裾分け。「かんでいると、幸せな気分……」というキャッチコピーもあながち嘘ではない……かも?二人前なので半分まだ残っている。実は白麺をまったく使わなかったので、明日あたり残りを食べる場合は白とピンクの麺で、わかめは使い切ったのでときたまごとカットネギで食べようかなと考えている。ごちそうさまでした。
 さて、明日からまた日常が始まる。たくさんの元気をもらった休日だった。今週は六連勤、自分にエール。

0511「未来というのは希望なのか絶望なのか」

 貯金とか健康とか、要は未来への投資をいつからどれほどと考えるものなのだろう。貯金はした方がいい、健康には気を遣った方がいい、お肌は急に曲がり角にさしかかるからケアはしっかりした方がいい、エトセトラ、理想論はよくわかる。
 まあお肌はともかくとして。
 よく言われるのだけれど今の若い世代が高齢になったとき、年金は払われないだろうという話。銭勘定が大好きな人間なのだけれど、明細を見るとばっちり年金は支払われていて、それが割とがっつりとした額で、そうであることはわかっていたのだけれど、私たち従属人口帯が義務に沿って労働して稼いだお金で支えなければ超高齢社会は壊れるということもわかっているのだけれど、でも既に壊れてんじゃんという気もしなくもなく、完全崩壊をしないようお上は必死に考え現場は足を動かしているけれど、なんとなく私達の未来って終わってませんかねっていう気分にさせられる瞬間がありますよね。何も考えずただ言いなりになって歩んでとんでもない平手打ちを食らうのは他でもない私たちだろう。国内全土から集められる税金総額からすれば個人から引かれるお金なんてまああまりにも微々たるものであるけれど、個人たったひとり分のお金としてはそれなりに大きな割合を占めるわけだ。文句を言いたいわけじゃない、それなりに平等に誰もが背負っていることなのだし。だけど時々嫌だなと子供の駄々のように思ってしまうだけで。甘いと言われれば口を紡ぐ他なく。ぼんやりとした絶望感に駆られたりしながら、結局まずは社会の歯車となることが求められることであり、それに異論は唱えないよ。なにも、世に反旗を翻したいわけでも世に大きく出たいわけでもなくただ粛々と平凡に我慢しすぎず生きていたいだけなのだけれど。ただ生きていればそういう生活は保障されるものなのでしょうか。そういうわけにはいかないんでしょうね。こんな世の中だからこそ自分がどう選択するか、だよなあ。あまりに大きすぎる社会はこの際置いておいて、個人的な、今とこれからまだ長い自分の未来と、どうバランスをとって皆さんやっているんでしょう。それでなくとも生きているだけで金はかかるというのに。
 お金といえばたとえば大学を卒業するまでにかけられた自分のお金。胸がつかえる。それに見合うだけの人間になれるかどうかとか。子供を育てきる親というのは立派すぎやしないだろうか。そして普通にしていれば親が先に死んでいくのだ。隣り合わせであっても普通に考えればより近いのは年齢が上の方だ。ここまで貴重な時間と金を子供に費やしてきたところで、体力は落ちていつの間にか随分老いていたその人に向けて、何をしてやれるのならその不安をとってやれるのだろう。生きているだけで老い、誰かは死んでいく。
 お金の話なんだか親の話なんだかよくわからなくなってきたけれど、こういう不安に雁字搦めになってしまって沈み込んでしまう時がある。仕事中だというのに何故だか親の葬式について思考が過ぎって、帰ってからは母の日のことを考え、そして同時に、お金を使って叶えたい自分の欲求について考えていた。貴方はどう考えてどうバランスをとって、ブラック未来に向けてあらゆるやりくりをしたいと考えていますか。私はぼんやりとした不安が先行しすぎて具体性が見いだせないし、これは今日に限った話ではなくずっと考え続けている課題であるので、とりあえず無難に貯金はしておくべきだなあとこれまた結局理想論に沿ってとりあえずやっておいた方がいいことをやっておこう精神でぼやぼやもやもやとしつつ、明日もあることだし寝ます。

0510「満足度としては六割くらいの休日」

 新生活が始まってから、休日というものがいかに重要で、身体と心を休ませられるかがいかに翌日以降に響くかを実感している。GWは三連休をいただいたけれど、基本的には連休が無い生活なので一日という短い時間の中で、休ませながら、かつ平日できないことの皺寄せをどれだけ処理できるか、が充実性に関わってくるわけで、やりたいことがやたらと浮かんでくるせいで学生時代よりもぼーっとただ過ぎるだけの時間は短くなりそういう意味では実りはあるかもしれないけれど、妙に胸がざわついたまま、焦ったまま、しっかり休まなきゃやりたいことをやらなくてはと追われているかのように夜までの時間を過ごしている気がする。時に気持ちばかりが空回っているような感覚になる。一日しかないからこそ勿体なく思えてしまうのかもしれない。執筆作業も、読書も、映画も、絵も、家事も、課題も、書写も、ゲームも、買い物も、……諸々、こなさなければならないこととこなしたいことが限られた時間に対して多くて、確実に部分的にはこなせているし楽しんでいるのに、やれなかったことの存在感が大きすぎるのだ。満たされた一方で、満たされきれない。少しずつ、少しずつ。焦るな、と言い聞かせながら。

 Aqua Timezの最新アルバムは最寄りのレンタルショップでは扱われていなかった。この周辺にCDショップというのは無くそのためには電車でも使わないことには駄目で、今日は電車を使ってまでの外出をする気力が沸かず、保留とした。
 代わりに買ったのが。

 

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 お金が入ったら買おうと思っていた。漸くである。前作はムーンだったのだけれど、今回はサンの方で。ところで、ゲーム内の時間と現実時間が12時間ずれるのがムーンの時なんとなく最後まで馴染まなくてサンにしたという部分があるのだけれど、まさかウルトラサンも12時間ずれているのでは? ママがカントーと真逆と発言したのがあまりにも引っかかる。まあ、それならそれで、いいんだけども。
 先程パートナーポケモンを選んでハウくんと戦うところまでのごくごく短い序盤のみプレイした。ソシャゲ以外のゲームをやるのがそもそもあまりにも久しぶりだ。最近、特にポケモンは全力ダッシュでプレイして短期間でストーリー攻略しておさらばというパターンが続いていたので、ゆっくりと進めようと思う。それにしてもサンムーン、ハウをはじめとしてけっこう気に入っていたのに、なんだか雰囲気を忘れている感じで、自分に戸惑う。つまりややポケモンから心が離れていたのだけれど、ハウは相変わらず癒やしであるし、まあ、ウルトラはハウに関して賛否両論あるらしいけれど、前情報ほとんど0からプレイするので、まっさらな状態で臨む。とりあえずは遠景の滝らしきものまで映されるグラフィックの奥行きが良い。
 パートナーはムーンの時はニャビーにしたのだけれど、今回はアシマリで。しぐれというNNにした。

 

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 常夏のアローラでは不釣り合いな名前ではあるけれど、気にしないことにした。
 前々からやりたいと思い続けていたポケモンを買ったことも、プレイし始めたことも自分にとっては大きな一歩。やれなかったという燻りを解消するには、やりたいことに一つ一つ触れていくしかない。
 その他、今日は本を二冊読んだり、ちょっと書写したり、美味しい珈琲を飲んだり、追われるような休日とは言ったけれど、たぶん、充実した一日ではあった。特に読書のうち一冊が面白くて。またネタ切れになったら話すかもしれない。語るのなら、いや語らなくても、読み返したいかも。世界一受けたい授業で話題になった「友だち幻想」という新書。職場、あるいはネット、その他、自分を取り巻く環境と自分のこころの在り方について、提案をしてくれた本だった。今の自分の状況を顧みると様々に心当たりがありすぎる。でももう少し。もう少し、自分の諸々を整えてから。
 ブログはそういう意味で、自分の気持ちや出来事を字数を気にせず書けて、整理になるから今ちょうどいいのだ。激動の時期を乗り越えるために。日常に少しでも意味をもたせたいし、訓練でもあるけれど、もしもこれを読んでいる人がいるのなら、読んであまりにも無駄な時間を過ごしたと思わせるような文章ではないようにしたいと淡い目標を込めながら、日々について書いている。無駄な時間とか空白の時間とか、なんでもない時間はむしろ必要な気はしているけれど、それでも無駄だと言われるのはちょっと心が痛む。もしかしたらいるかもしれない貴方の時間をいただくのなら、そして自分が読み直すのなら、それは整頓したものでありたい。

0509「Aqua Timez」

 ひなげしですが、今日見たら花がいくつか咲いていて、まだ開いていない蕾があったことに気付きました。群れのように生えているのだからそりゃあ蕾の一つや二つあったっておかしくなく、あの雨ですべて死んだような感覚になっていたけれど、考えが浅はかだったというか単純さに気付かなかったというか、兎に角、ああそうか完全に死んだわけではなかったのだ、後から膨らむものもある植物の当たり前を目の当たりにした朝。植物の常識に欠けている。ところで今朝は自転車で、また通り過ぎてしまった。昨日言った「今度こそ立ち止まろうと思う」という発言は一体なんだったのか。そういうものだ。

 Aqua Timezが解散するという報道があった。
 最初は、ガセだと思った。なんて悪い冗談だろう、と。しかし、真実だった。眩暈を覚えた。
 えらくファンだったわけではないし知っている曲も随分限られているのだけれど、ちょうど漫画やアニメの熱が濃かった青春時代、BLEACHの大ファンだったので、自然といくつか熱心に聴いていた。ごくせんもあった私の世代周辺はきっとクリーンヒットだった人も多いだろう。MD全盛期だ。私もAquaの曲を焼いたMDを持っていた。虹、しおり、千の夜をこえて、ALONES、Velonica……Velonicaは、早口言葉のような歌について、歌詞カードを見ずに必死に聞き取ろうと友人と美術室の黒板を使って楽しんでいたのをよく覚えている。実に格好良い曲なので是非聴いてほしい。

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「ここではないどこかを目指す理由とは 心ではないどこかに答えはないと知るため」

 久しぶりに聴いたら自作的な意味ですごいずどんと突き刺さってくるので自分でも改めてじっくり聴こうと思う。滑舌は悪いけれど雪崩のような曲を歌うのが好きなのでカラオケでも毎度歌っていた時期がある。嘗て擦り切れるほど聴いた曲だ。

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「向き合いたい でも素直になれない」
「まっすぐに相手を愛せない日々を 繰り返してはひとりぼっちを嫌がった」
「あの頃の僕は無傷のまま人を愛そうとしていた」

「好きな人には好きって伝えるんだ」と何度も繰り返す千の夜をこえてのストレートさも好きだけれど、上記の部分が好きだ。特にバックの演奏がほとんど静かになっての「無傷のまま人を愛そうとしていた」の声がたまらなく好きだ。今改めて聴いてもなんだか胸に傷をつけられる感覚がある。人と関わることって最早それだけで何かしらの傷をつけていくじゃないですか。愛とか恋とかは相手と自分の間の激しい感情の形で、無傷で得られるようなものじゃなくって……ハッとさせられませんか。これは人と人の愛情に限った話ではないんじゃないかなと今改めて聴くと思う。「伝える」こととか「関わる」ことがどんどん遠くなったり鬱陶しく思ったり苦手になっていく自分なので。でも伝えなきゃ伝わらないんだっていうことも痛いほど実感している。ひとりぼっちもまた寂しくなる。
 無傷で生きるなんて、無傷で人と関わるなんて、土台、無理な話だ。私も含めみんな自分がかわいいし自分の心は労りたいし、過度な自己否定をするくらいなら圧倒的にそれは大切なことなんだけれど、好きなひとであったり好きなものであったり、欲しいものを手に入れるためならいろんな形の代償が必要になる。「無傷のまま人を愛そうとしていた」。傷つかずにいられたらどれだけ楽なことだろう。でもひとりでいても傷つくし、誰かといても傷つくし、まるで八方塞がり。世知辛いものですね。けどその傷を癒やすのもまた「誰か」なのだと思う。実に矛盾だらけだ。「好きな人に好きって伝える それはこの世界で一番素敵なことさ」。最後に用意されたフレーズ、傷ついてでも踏み出す尊さについて。ストレート。ドがつくストレート。でもこれはここまでの歌詞があるからこそ輝く。美しい作品だと思う。

 Aqua Timezの、美しいものと汚れたもの、温もりと冷たさ、幸福と苦悩が共存した歌の数々が好きだった。一筋縄ではいかないことばっかりで辛くても、生きるのは、人は、愛は、未来は素晴らしいぞ、なんて謳歌、疾走するような歌(そればかりではないけれど)。青春時代に確かに触れ、確かに感化されていた。
 繰り返すけれど私はAqua Timezは本当に限られた曲しか知らないし、最近の曲はもっと知らない。それでも大好きな曲があるし、思い出もたくさんある。解散すると知って慌てるように、ウォークマンに入ったままの曲をリピートしながら出勤し、あるいは皿洗いをし、あるいは洗濯をし、そしてこのブログを書いている。帳尻合わせのようだ。
 単純に。
 解散が寂しい。
 なんて思うのは、あまりにも都合が良すぎるだろう。それでもあえて言いたい。寂しいと。
 公式サイトに載せられたメンバーからの言葉を読むと、熱心なファンでも無いのに涙がこぼれてしまう。ごめんなさい、と何度も言う彼等を、見ていられなくなる。こんなに謝られてしまったら、ファンが気の毒に思うくらいに。あまりにも切実で、そこにいるのはただそれぞれ、等身大の人間だった。どうか、どうか彼等の未来がしあわせであることを願う。私にとって大切な楽曲を世に出してくれたことにここで一度感謝したい。
 本当にありがとうございました。
 最新アルバム、明日借りるか買うか、してきましょうか。明日は休みです。

0508「美味しい塩パン」

 まず昨日の記事のその後。
 結論から述べれば、ナガミヒナゲシは散っていた。
 その未来を全く予想していなかったわけではないけれど、何故か割と心の底から今朝もあのオレンジを見られると信じていた。細い茎や繊細な色味は確かに弱そうなイメージだけれど、雨に打たれて首を擡げていた様子からは、雨など降れば瞬く間に散っていく桜なんかよりもずっと堪え忍ぶような印象を受けたせいだ。
 今朝はちょうど雨こそ降っていなかったけれど、花は完全に落ち、その根元のあたり、潰れて汚くなったオレンジの花弁がコンクリートにへばりついていた。それもたった一枚か二枚残っているばかりで、きっと風に吹かれ雨に打たれ、或いは車に轢かれ粉々に磨り潰されて、どこかに消えてしまったのだろう。花弁を失ったところには額と、実のようなものが残っていた。時間に余裕はあったけれど、写真も撮らず、さっと観察しただけでそのまま通り過ぎてしまったのでじっくりと眺めたわけではない。どこかショックな気持ちを携えた朝だった。花は儚く刹那的だ。けれどタイミング良くその美しい姿を見られたのは運が良かったと言えるのかもしれない。爆発的な繁殖力というのなら、良いか悪いか、今後も見る機会はあるだろう。その時は、今度こそ立ち止まろうと思う。

 ひなげしの話はここで一度終わらせて。
 基本的に毎日職場と家を往復する日々を送っているわけだけれど、その道の途中に美味しいパン屋がある。パン好きな同期が教えてくれたお店で、試しに買って食べてみたら確かに美味しかったので最近自分の中ではブームになっている。
 朝は降っていなかったけれど天気予報通り夕方から雨は降り続いていた。雨の日は二割引らしい。今日は少し落ち込んだ帰り道だったので立ち寄ると、売れ残ったパンがいくつか並べられていて、私の一押しである塩パンもいくつか残っていた。恐らく店の代表格であろうその塩パンがそれもう旨いのだ。明日の朝のためにも買うか逡巡して、結局今夜の一つだけ買うことにした。割引は会計の時に気がついた。100円が二割引、税込み価格で86円。申し訳なくなるほど安い。雨の日に喜びを感じる。
 塩パンは嘗て私の母親がはまっていて、その時の影響と名残で見かけるとつい買ってみたくなってしまう。
 この塩パンはバターがふんだんに含まれていて、家でレンジで温めてすぐに食べるのがお決まりなのだけれど、ほどよく温めるとパン生地はちょっと力を入れただけでひしゃげる具合になり、固めのパンを好む人からしてみればちょっと邪道かもしれないが、この柔らかくなったパンを噛むと、さく、とやや固い生地の奥はふんわりと柔らかく、染み込んだバターが一気に口の中で溢れるのだ。じゅわ、という音が聞こえてきそうなレベルのそれ。これが旨い。優しくて濃厚であたたかなバターに、アクセントのきいた塩気が混ざってそれはもう頬までバターと共に蕩ける勢いだ。ちょっと大げさのように感じるかもしれないのだけれど兎に角この塩パンが大変美味しく私の大のお気に入りであるという点を理解してほしい。そして切ないことに瞬く間に口の中から消えていき気付いたら手の中からも消えている。一瞬の出来事だ。しかしその時確かに幸福になれる。
 普段の100円でも安いくらいなのに、それが今日は86円。なんて有り難いのだろうか。この塩パン、偶に夜は売り切れていたりする。その瞬間はひどい脱力感に見舞われるのだけれど(もちろん他のパンも美味しいものの)、多めに作ってあるだろうに、人気なのは一般的な評価としても高いことの表れだと思う。これからも足繁く通っては塩パンを買うのだろう。
 そういうわけでちょっぴり沈んだ夜も美味しいもので静かに上昇軌道に乗せて、粛々と過ごすのみ。食べ物が日々を彩ってくれる。明日も頑張りましょう。

0507「道端に咲いていた花のこと」

 GWは3日のみ出勤して、4日からは3連休をいただいていた。家族がやってきたのでお給金を使ってご馳走したり、親戚の家に行ってゆっくり話をしたり美味しいものを食べたりしていた。この連休で自分自身に関することとして大きな変化といえばプリンターを買ったことなのだけれど、それは追々ネタが切れたら話そうと思う。

 連休明けというのは往々にして憂鬱なものだ。世間では連休など無かったと言う方もおられることはよくわかっているが(誰かが休日に働いていることで休日を休日として過ごしている誰かが羽を伸ばせていることを忘れてはいけない)、それはそれこれはこれで、兎に角私は連休だった。そして今日は連休明けだった。そして寝坊をした。連休中はスマホのアラームを切っていて、それを設定するのを忘れてしまっていたのだった。とはいえ、いつも弁当の準備に加えて早めに着くよう起きているのであって、更に勤務先は近いため、運良くそれでも充分間に合う時間ではあった。しかも雨ときた。自転車が使えないので仕方が無く歩いて出勤していた。
 今日、奄美諸島での梅雨入りが報道された。まだ五月も入ったばかりで梅雨というにはこの地域は早すぎるけれど、今朝はしとしとと地味な雨で、梅雨を彷彿させるようなじっとりとした天候だった。どことなく空気は灰色で、建物も道路も色褪せているような視界だった。雨、とりわけ梅雨の時期は紫陽花がきれいなのと誕生日が被るので嫌いではないのだが、今はまだ梅雨ではないし、タイミングがタイミングなだけに、寝坊をしたこともあったということもあって足早ながら、あらゆる憂鬱を抱えてやや俯き気味に出勤していた道すがらのことだった。
 灰色でどよんとした空気の中、ぱっと目につく柔らかなオレンジ色の花が道端に咲いていた。およそ十輪といったところだろうか、ひっそりと、空き地のはじっこの方、アスファルトの隙間から伸びていた。雨に打たれ、雨水が重たげに覆い被さって花はどれ草臥れたように下を向いていた。それでもその色は、雨で洗われているかのように、優しげで印象深いものだった。
 世に言う雑草の類であることは容易に想像がついた。ひなげしだろうかと思った。こんな住宅街の道で。
 前述した通り寝坊をした身だったし、足を止めて観察するほどの時間の余裕も無ければ、ロングスカートを履いていたのでしゃがみ込んで汚れるのも嫌だったし、人気が少ない道とはいえ職場が近づいている中なんとなく気恥ずかしさもあったので、写真は撮らなかった。けれど下向きの気分、下向きの視界に紛れ込んできたそれは自分の胸にも色を残していった。
 帰ってからもまだその絵が記憶に残っていたので、調べてみた。

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 恐らくこの花だ。「ナガミヒナゲシ」「長実雛罌粟」。四~五月で時期も被るし、この淡赤色、同じ見た目をしていた。ひなげしってこんな漢字なんだな、可憐な見た目と違って難しげ。写真のひなげしはすっくとどれも天に向かってまっすぐ伸びているけれど、私の見たものはどれも俯いていて、写真を見ればやはり茎は繊細に細く、確かにこれでは雨水の重みに耐えられないことが窺える。
 どうやらネットで調べてみると容姿とは裏腹にかなり悪評高い野草らしく、繁殖力が非常に強いらしい。駆除対象として指定されているわけではないけれど、爆発的な拡散力で日本の野草を駆逐してしまう恐れがあるそうだ。一方で、見た目は可愛らしいので観て楽しむために園芸している方もおられるらしく、その気持ちはよくわかるような気がする。私はガーデニング関連にはひどく疎く大きな興味も無いのだけれど。ただ、かわいい顔して危険で腹黒いと断罪してしまうには勿体ないと思ってしまう。甘いだろうか。恐らくあの雨の中、連休明けの朝、灰色の空気、いろんな要因の中で佇んでいて見つけてしまった妙な偶然がそう感じさせてしまう部分もあるのだろう。
 辞典の写真やネットで写真を見ると、あの時少しでも足を止めて写真を撮っても良かったかもしれない、とも思う。
 ならば明日は同じ道を使って写真を撮ろうか、などと考えて天気予報を確認したら、明日も明後日もどうも雨が続くらしく、その後も曇りが続いて、五月らしくない、梅雨入りもしていないのにどうも梅雨に入ったような天気が続く。雨水に打たれているナガミヒナゲシはそれはそれで風情があったのだけれど、どうにも雨だと早く室内に行きたいという気持ちが先行してしまいそうだ。寝坊せず、気持ちが向いたらスマホでも取りだそうと思う。とりあえず、明日はズボンを履いていこう。
 特に意味はない、ただの日常のはしくれ。地元に比べて建物の背が高く密集しているために空が遠く、つい下の方を見てしまうけれど、偶にこんな出会いもあることを思えば、別に地上だって悪くはない。そんなことをこの地域に来てから何年、今更のように気付いたのだった。
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 ところでこのナガミヒナゲシが載っていた本は「草の辞典」というもので、装丁はもちろんのこと文庫サイズで全体的に可愛らしいのがツボなのだけれど、中身の、写真と脚注も春夏秋冬で分けてあり、七草粥などコラムも挟まれていて時折読むと安らぐ。これも昨日記事に書いた「美しい日本語の辞典」と同じく手持ち無沙汰感は否めないのだけれど、こういう時に手元にあってくれると助かる。辞書って、まあ、読み物としてぼんやり眺めているのも楽しいんだけど、そういうものなんだよなあ。同じシリーズで「空の辞典」とか「水の辞典」とか「星の辞典」とかも確かあったんだけど、いつか購入してもいいかもしれないと検討するくらいにはそれらも素敵だった。
 本屋で見かけたら試しに触れてみてほしい。おすすめです。