1201「11月読書記録/11月後半の執筆記録と執筆の個人的話をちょっと」

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 11月が終わりました。計10冊!
 2019年が始まった頃は100のページが埋まることが怪しかったのに、新しくページを作ることとなりました。ぱちぱち。
 記録の良いところは、数字が明らかになる点、何を為したのか・或いは為せなかったのかがはっきりと明白になる点ですよね。元々好きなんですが、たいてい途中で飽きてこうして1年間ずっと記録を続けられることは珍しい。
 11月頭で目標としていた100冊目には到達しましたが、その100冊に至るまでではamazon unlimited readingの短編作品なども含まれているので、それを1冊と数えて良いものか怪しさがありました。しかしこうして109まで来るとそれを含めてもきちんと達成したと言って良いでしょうということで、安堵しています。
 さて、そんな11月ですが、わかりやすいまでに凪良ゆう作品が途中から連なっています。そもそもの出自がBL畑の作者なので見事なまでにどれもBLノベルで、ブックオフであるものとりあえず買ってたんですが(しかしまだまだ作品はある。息の長い作者は作品が多くて嬉しい)、引くほど好きというか、自分の琴線に触れていくので読み始めたら止まらなくて……。言うてさほどこの畑に詳しいわけじゃないのですが、ただメインの二人の単純な関係性ばかりにフォーカスが当てられるのではなく、それぞれの人生観だったり、生活だったり、恋愛だけではないその人の生き様や、それが二人だけではなく二人の周りの人間もきちんと描かれていて、人生って一人でも二人でもなく沢山の人間で構成されて作り上げられていくというのが表現されている気がして。BLなんですけどBLという枠にはまらないストーリーの広がり方が大好きなんですよ~!丁寧なんですよね……。文体が読みやすいのでするするするっと進んでしまうんですが、あーここ好き!という表現にも出会って増える付箋(最近付箋を付けながら読むようになりました)。好き。
 12月3日に一般文芸で出る新作も楽しみです。

 凪良ゆうばかりではなく、そういえば何も言えていなかった、十二国記の新刊。読まれましたでしょうか?
 もののけ姫ではないですが、静かに、強い声で、強い視線を以て、「生きろ」と訴えかけてくるような物語だったように思います。あんな困難な状況にぶちあたっても尚、諦めない誰かがいて、崩れそうになっても、絶望的であっても、苦しい今生の別れがあっても、ふるいにかけられながら己の力で生き延びた人達が、耐えがたきを耐えながら行動し、劇的な展開へと流れていく。最終的に待ってるのは恐らく希望だと信じていても、いつまでこの泥沼は続くのかと思いながら、それでも一つ一つ希望が見えては、また泥沼に突っ込んで、また一筋の希望が、とそれを繰り返して、上げて落とし上げて落とし……読み手はその激流の中に身を投じ見守るしかない。
 堕落や思考停止は滅びの一途を辿るのみ。それは酷く恐ろしい。
 生きる彼等も、死にゆく彼等も、それは天に定められた運命ばかりではなく、己自身の力を強く持つ者が輝くのだと、世界を動かすのだと……。
 面白かったです。読んでいない方は是非。

 獣の奏者は、読みたい読みたいと思いながら五、六年くらいずっと本棚のお局と化していました。新しい本を仕入れつつ積み本も読めるのが理想で、この度漸く読み始めました。ここまで長かった。きっかけがあったわけではないですが、読み始めればやはり止まらず。
 強い興味関心と共に言葉の通じぬ獣と真摯に向き合い、政治も絡ませながら、ただの生き物との成功ハートフルストーリーで決して終わらせない重い展開。うーん、なるほど、とかなんだとか思いながら、埃を被った本はやっと日の目を見て、個人的な参考文献に昇華されていったのでした。面白いなあ。
 文庫版の三・四巻と外伝まで買っていてちまちまと読み進めていますので、もう暫くは楽しめそうです。

 そんなこんなでいよいよ残り一ヶ月ですね。
 最後に読みたい本は決めていますが、今日も本屋に行くとまた読みたい本がたくさんあって……。つい先日ブックオフで大量に仕入れた積み本の数々があるので自制しましたが、どれだけ読んでも読みたいものが出てくるのは幸せなことです。
 12月はひとまず仕入れた本を読んで、宮沢賢治を読んで、来年はどんな本を読みたいか、ジャンルに拘らず、また一から考えていきたいですね。
 楽しみだなあ。


 *

 創作の話。

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 先日のブログでも少し話題にあげたんですが、創作をがっつりしようしようと思いながら怠けていたので、1日1000字書けば一週間で7000字は稼げるということで、毎日執筆して字数を記録するということを11月の後半から始めてみました。1000字という目標は早々にやめて1字でもいいからできるだけ毎日書くというゆるやかな心持ちでやり始め、2週間ほどやってみました。それが写真の通りです。
 飲み会などで帰宅が遅くなった時もありましたが、概ね毎日書けて、最終的に14000字ほど、なので平均すれば1000字/日で書いた計算になります。ほんの少しだけ進んでも、そのほんの少しはきちんと階段の一段一段をのぼった証になるんだな。
 読書もゲームも仕事関連の勉強も、やりたいことはたくさんあります。創作一本をやろう!という瞬間もあれば、他をやりたい、という瞬間も当然存在します。その中で、執筆が習慣化して、コンスタントにやれるようになれば楽になる。
 仕事や日常生活を含めて様々なタスクがある中で、続・キリ編を今年中に終わらせるという目標の達成は難しいかもしれません。しかし手元でどれだけ終わらせられるかはまだ分かりません。年の瀬が近付いています。残り一ヶ月で無理矢理どうにかするというより、新年で良いスタートを切って、こんな自分でありたいという理想に近付くために準備を兼ねた一ヶ月にできたらいいと考えています。特に創作という趣味は、二次創作かどうかはともかくこれから何十年とずっとやっていきたいと今は思っているから、何十年と生きていけば自然とライフスタイル・ライフステージが変わっていく中、習慣してしまうことに関して早いに越したことはありません。
 自分は何をしたいか。何を為したいのか。どんな自分になりたいのか。どんなものを形にしたいのか。思い浮かぶ中で、外すことのできない小説というライフワークと、バランス良く付き合っていきたい。まっしろな闇を大切にしていきたい。
 決して字数が全てではありませんが、字数は進捗を確認するうえで解りやすいので、このカレンダーは12月も続ける予定です。
 これも、1年、読書記録のように続けたら、1年間どれだけ進んだかが解るんだなあ。それってすごく面白いと思いませんか?やりたいなあ。やってみたい。来年はそうしたい。

 もう一つ、小説執筆をうまいこと生活の流れに組みこむために、以前ツイッターで何回か人を募ってやっていた「作業会」を復活させたいなあという思いがあります。
 不定期に私の気分でやっていましたが、週一ペースとか二週に一回とか、勿論参加は自由で、私も用事があって日がずれることはあるだろうけど。学生のサークルのようなイメージで、楽しいことをゆるく、でもやるならしっかりやる、のスタンスで。習慣化という観点から言えば週一くらいでやるのが理想ですが……毎週日曜とかね。そういう風に定期的なものにしてもいいんじゃないかと考えています。
 定期的にするのなら、新しくそれ用のアカウントを作ってもいいな。勿論本垢でもいいですし人を集めるという観点から言うと本垢の方が可能性あるんですが、本垢はこうして急に飛ぶことがあるので(笑)自分にとっても良い案かもしれない。作業会自体はスカイプでやるけど、タグを作って、スカイプは抵抗あるけどツイッター上で参加するとかもできるようにしたりとか。基本的にツイッター自体が作業の妨げと考えているので、募集はツイッターでやっても、メイン会場をツイッターにしようとは考えていませんが。
 まあ、この引き籠もり具合で果たしてそんなことができるのか。
 そもそもこれだけツイッターから離れている中、人が集まるかが果てしなく怪しい。私自身はだいぶツイッター世間から隔絶した地点にいる中で。
 でも集まらない時があってもいいし、集まる時があったら嬉しい。作業をしたいという人が来てくれたらそれで大丈夫。
 甘い考えかもしれませんが、明るい、とまでは言わずとも、陽か陰かでいえば陽のエネルギーがうまいことはたらいて、それぞれ良い方に作用していって、ゆるすぎずきつすぎず切磋琢磨できるような、お互い何かをきちんと褒めて、認めて、自分自身のことも認めてあげられる、そんな創作の場があったら、と漠然なイメージで考えていて。この界隈って、私もめちゃくちゃそうだけど本質的には陰の人だらけだと思うので、陰が陰に作用しちゃうとどこまでも陰に深くずぶずぶ陥っていってしまうんですよね。なんというか、そう、いろんな場所が生まれたらいいと思う。呼吸をしやすい場所にいたらいいし、それは人それぞれだし、状況によっても変わる。何が良いとか悪いとかではなく、物事に良い点と悪い点があるのは必定。だからこそ、いろんな場所ができたらいいし、自分のためでもあるんですが、前述した自分にとっての理想の場所、自分にとって前向きに物事をやれる場所が、誰かにとっても楽しくやれて、そして成長したり向上したり前に進んだりする場所であったら、すごく、素敵じゃん!と思うんです。作業会は、人とやるけど、闘う相手は自分自身であって、一緒にいるのは、仲間であり時に良き好敵手、という、イメージなんですけど!来てくれる誰かと、一緒にそういう空気を作り上げられたら!いいと!思うんですよね!
 もしかしたら私が知らないだけで、あるいは私がいない間にそういう場所は作られているかもしれませんが……。
 まあ、創作カレンダーにしろ手帳にしろ料理にしろなんにしろ、今ちょっとした新しいことに対し挑戦的というか、前向きなベクトルがはたらいているので、その勢いのままにやっている感はあります。一度冷却する必要はある気はしています。一時のテンションかもしれない。ただ、もしかしたら、12月のどこかで久しぶりに募集をかけるかもしれません。かも、しれません。わかりません。でもやりたい思いはある。お、なんかちょっとだけツイッターに対して前向きじゃないか。うまく付き合っていきたいですよね、SNS

 さあ、2019年も大詰め!できるだけ年末を後悔しないように、一日一日を大切にしていけるように。生きていきましょ。
 ここまでありがとうございました。

1126「「すべき」から「だったらいいのに」へ/文を綴るのが好きだという話」

 今回の記事は長いです。8000字ほどあります。

 

 休日です。
 休日前夜はよく気の済むまで夜更かししていて、平気で三時まで起きていられたりしたのですが、最近はとてもそんな深夜まで起きていられなくて、遅くても一時くらいには布団に入ります。そして平日のお休みだと大体消すのを忘れていたアラームが鳴って、習慣づいた時刻に目が覚めます。そのままもう一度眠りにつくこともあれば、うんとこしょと起き上がることもある。今日は出さなければならないゴミの日だったので、普通通りに起きなければ間に合わない。
 朝のまどろみを噛みしめながら昼までだらだらするのは好きですが、午前中にやりたいことをしたり、やるべきことをしたりして、お昼を迎えるのはもっと好きです。午前中って、まだ有り余った力があるせいか、やり始めるとすとんすとんと物事が進んでいって、それでも「あれまだこんな時間」と思えるのが好きです。まだ今日という一日はたくさん残されている。夜の終わりゆく静けさも好きですが、それとは違う、小さな高揚感に包まれます。
 今日は掃除機をかけて、トイレ掃除をして、洗濯をして、などなど、やりたかった家事を進めていました。
 朝起きたばかりの頃、外は曇っていましたが、時間が進むにつれて眩い陽光が差してくるようになりました。一応は南向きの部屋なので、昼間になるほど強く照らされます。こういうときの躊躇いなく入ってくる、目を細めるようなあたたかな光にそれだけで心の奥深くがやわらかくなるのを実感します。11月ももうじき終わろうとしていますが、気温もさほど低くなく、窓を開けていてもそれほど苦ではありません。一人暮らしをしてワンルームなどに住んだ経験のある方にはある程度賛同を得られると思うのですが、独居向けの部屋は風通しがそれほど良くないです。空気の通り口が、玄関と一つの窓くらいしかないし、まあ玄関を開けっ放しにしておくのは安全上怖いので、余計に空気がたまりやすい。だから時折光をきちんと部屋に入れてあげたり、窓を開けて新鮮な風を流してあげると、それだけで再び息をし始めたようなそんな気配がします。特に寒くなってくると、暖房をつけたりしてますます空気が悪くなりやすいので、こういう瞬間というのは貴重です。もう少し寒くなったら、少し換気するだけでもうたくさん、となって、余裕を感じられなくなっていくんだろうな。
 という、たいへん他愛もない話を書くだけでも、ここまで何字だと思いますか。はてなブログは書いていると自動的に字数が計上されていくのですが、「何字だと思いますか。」の句点でちょうど1000字だそうです。
 ブログの文章は肩の力を抜いているうちに字数が嵩んでいくのですが、小説の文章はその時々によって、無意識のうちに数千字叩きだしていることもあれば、頭をひねくり回して数百だとか数十だとかそのくらいしかいかないこともままあり、字数が全てとまでは言いませんが、物語を進めるという点においては字数は単純な指標になります。その日の体調によっても変動するし、単純にどれだけ時間があるかでも変動するし、ただ、その中でも、たった一字でもいいから一日に一度はポメラを開いて小説を進めようと思い、手帳に新しいページを作りました。
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 創作カレンダーというなんのひねりもないですが、見ての通り毎日何字書いたかを記録して、週末には合計を出すという、決して新しくはない試みを始めてみて、見ての通り一週間ほどが過ぎました。飲み会や残業で執筆どころではなく寝た日もありますが、だいたいのところ続いております。三日続いたら大体オッケーと思っています。
 これを始めた時は「1日に1000字書いたら1週間に7000字確実に書ける」ことを意識していたのですが、一週目にして1日に1000字という目標による自らへのプレッシャーがしんどくなり、途中から「1字でも書けたらいいな」というゆるいスタンスにすると割と無理なく続いて、結果的には先週は7000字どころか9000字を越えるという結果になりました。それは勿論21日(つまり休日)に夢中になって進めたことが大きく影響しているのですが、最近仕事でもなんでも「時間がある時に一気にやろう」という考え方の危うさを感じていて、勿論、時間があるときじゃないとできないことは必然として存在するのですが、日々の積み重ねや、ちょっとした時間に進めていくことが、事を為すのに重要であり、特にその目標が大きければ大きいほど当てはまると思います。だからそれなりに進めることができたのは、少しでも書こうと意識して行動したことに理由があるだろうし、意義はそこに存在しています。勿論こうして書いた文を最終的に使うかどうかは別問題だし、決して字数が全てではないということは声を大にして言いたいのですが、それでもきちんと進んでいるよ、というわかりやすい指標になってくれます。数字は嘘をつかない。
 そもそもの性格、完璧主義なところと妙にストイックなところがあるので、目標を立ててそれに向けて前進することが好きでした。しろ闇も部分部分でそういった目標のもとにひたむきに走った時期があり、そうして得られるものも多くあります。だけど逆に「こうしなければならない」という義務感が焦燥感を生むことはあるし、学生生活を終えてあらゆる「やらねければならない・こうしなければならない」に塗れていった時、だんだんと自分自身へ義務づけていくことが苦しくなっていきました。わざわざ自分に責務を課さずとも、自然と義務は降ってくるので。個人的な話、特に今は職場の目指すノルマのハードルが驚くべき速度で上がっているので、気力が追いつかなくなることはたびたびあります。
 とある本で琴線に触れたくだりがあって、「すべき」から「だったらいいのに」に変換するというものです。希望と願いは区別できる、と著者は語り、「するべき」と道徳化するよりも、願いに基づいた言葉を発することを静かに勧めます。この部分では特に対人において、そうして変換することで、自分の思うようにならない不満や怒りが悲しみや悲しみに由来する思いやりに変わり、平穏になるのだと言います。なんていうと若干宗教染みた文章になりますが……。でも、この考え方はさほど的外れではないと思います。他人に対する許容範囲が広がりますし、自分自身への許容範囲もまた広がります。根がまあまあ完璧主義人間なので、無意識のうちに「~しなければならない」だとか「~するべき」だと考えてしまうのですが、それを後から「~だったらいいのに」へ変換するということを、最近は意識しています。生きている全てが必須タスクなわけがないし、義務というのは達成できなかった時の自責や自己嫌悪といった様々なリスクとの背中合わせです。少なくともそういったリスクが減る分、ちょっと楽になります。できたらいいな、でもできなくても仕方ないな、でもやっぱりできたら嬉しい、みたいな。
 だから最低1000字ではなく、もっと最低ラインの、1字でも書けたらいいな、で書いています。そしてこの日々シールを貼ったり最終日に可愛いシールを貼ったりするのがまた楽しくて。あ、可愛いでしょう、このピカチュウ。昔買ったフレークシールです。
 日々に彩りと願いを含めて生きていく。うまくいかないことばっかりじゃなくて、うまくいくことだってきちんとある。挑戦は失敗することだってある、でも失敗は悪いことじゃない。何かを少しでも為せばそれが自信となって、また違う挑戦にいどむ勇気が生まれる。それは一朝一夕に得られるものではなく、日々のつらなりの中にこそ存在する気がしている。だから、日々小さくてもいいから何かを積み上げていく意識を少しばかり持っていられたらいいなあ、というこの頃。

 *

 何かを積み上げる、というのは即ち習慣化、という言葉に変換できますが、社会人になってから習慣化できたな、と自信を持って言える唯一は、弁当です。今や作らなければ居心地が悪い、という。
 もう一つ最近になって習慣化しつつあるかな、と思っているのが、手帳です。
 月々の読書記録や先程の創作カレンダー、前回のハスボーのくだりなど、クリーム地の方眼紙なので察せることではありますが、全て同じ手帳に収められています。
 手帳自体は高校生あたりから毎年毎年形を変えて使っているのですが、満足に使えたと言い切れる一年は正直無いです。たいてい、どこかで飽きて数ヶ月放置します。高校生の時は毎日変わる時間割をメモするのに使っていたのでいやでも毎日開いていたんですが、大学になると授業の時間割は変動しないし、管理しきれないほど予定を埋める人間でもないので、さほど必要性がなかったというのが実情です。
 ただ、タスク管理は物凄く下手で、予定があるのに同じ日に予定を入れてしまって迷惑をかけるという経験が一度や二度ではなく、後先考えずに行動したり、あるいはやるべきことを後回しになって苦しむという経験にほとほとうんざり、自己嫌悪という悪いサイクルから脱したいという思いは常々抱いていました。その中で昨年の中頃から始めたのがバレットジャーナルという手帳管理方法です。
 バレットジャーナルとググればそれがどういうものかは具体的に出てくるので細かいことは割愛しますが、手帳というより自由帳のような側面が強いやり方です。公式でも手帳術というよりノート術として紹介しているように、一本のペンとノートがあればできるというのが基本スタンスにあります。ToDoリストや日記やスケジュール帳やスケッチブックなどなど、様々な要素を一冊のノートにまとめて管理しようというもので、バレットとは「点」を表し、思いつくままにこの点と共にタスクを連ねていってパッと見で必要なタスクを判断したり、アイデアをわかるようにしたりします。
 ただ、これも去年の六月に始めたものの、去年半年ずっと続けられたかというとそれは「NO」で、一冊使い切れずに今年に入ってからは同じ種類のMDノートでバレットジャーナルを続行しましたが、それもやはりうまく続かないことも多く。唯一、年間通してうまくできてるのが「読書記録」でした。
 6月や8,9月がほぼすっぽり抜けていたり(抜けていた理由は思い返すと納得できますが)、その他の月も毎日できていたわけではなくて。バレットジャーナルは書けなくてもいいよ、書きたいときにいつでも続きから書ける、というのが良さの一つなので、手帳にありがちな「書いてない期間が空白になって嫌になる」という感情が抑えられるのですが、それにしてもなんとなく使えない感じでした。
 今年の10月半ば頃。ツイッターを離れて、生活や仕事や心の在り方を悶々と考えたり、様々なストレスに対して嫌になっていた頃。その一方、やたらと読書していた時期でもあったので、勢いそのままに、ずっと積み本になっていたバレットジャーナルの公式の本を読み始めて、またMDノートを開くようになりました。
 どんな些細なことでも、頭に浮かんだことをできるだけ手帳に書く。思考を紙に転写する。やるべきことも、アイデアも、他愛もない出来事も。悶々、ぐるぐると脳を延々に支配していた思考を紙に書くと、憑きものが落ちたように思考が楽になる。あれもこれも、と考えていてキャパシティ限界まで膨らんでいたものが、書き出すことで容量に余裕ができる、という感覚に近いです。人間の脳は1日に6万個の事柄を考えているそうで、その全てを書き取ることは無理です。ただ、それだけ考え続けているわけですから、それなりに疲弊もするし、その中には本当は留めておきたかったけど忘れて消えてしまう思考というのもあるわけです。ぐるぐると頭で考え続けてしまうタイプなので、その時その時は脳内で盛り上がるんですが、やがて落ち着いて消えていって、後には疲労感と妙なもやもやと「何を考えていたんだっけ」という虚無感が残っていたりします。頭の中だけでどれだけ考えてもたいていのことはすっきりしないんですよね……。
 だから、タスクだけではなく、その瞬間に過ぎっている言葉や思考をどんなに長くなっても良いから流れてくるままに書く、という、エクスプレッシブ・ライティングと呼ばれるらしいことをするようになりました。いろいろ模索する中で、後からそういう名前で呼ばれることであるらしいことを知りました。なんか文面はかっこいい。
 書くこと自体がめっきり減っている昨今、その行為自体にも心地良さがあり、やはり書く行為にはストレス発散という意味でも大きな効果を得られるそうです。ホムンクルスの小人の奇妙な絵が表すように、手というのは過敏な神経が集中しているので、手を動かせば動かすほど脳がより活性化するのは自明の理です。
 書き出すことで自分の感情や思考とそのまま向き合い、違う視点で自分と対話することができる。思考を外部に表すことで、忘れたくないことを記録することで、安心して脳から忘れ去ることができる。より深く思考を掘り下げることもできる。
 それはとても楽しい。

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 昨日のページはきれいに2ページ収まっているしわかりやすく下から上に上がってる自分の思考状態が見えますし、仕事についてほとんど具体的に語っていないので比較的見せられる感じになっているので、こんな感じにやってます、というのを。見せられるというのっけからアニメイト予約……。

 自分でもぱらぱらとめくるだけでそれなりにどどこもかしこも圧巻の文字圧で凄みを感じるので引かれてもおかしくないんですが、今は毎日大体こんな感じで書いています。小難しいことも、ネガティブも、ポジティブも、まとめる。バレットジャーナルというより呟き帳というかなんでもノートというか自由帳というか、でも自分なりのバレットジャーナルです。人によってノートの中身はそれぞれ。

 筆記は結構前に、一本くらいはまともな筆記具を持ちたいと思って買ったセーラーの万年筆です。細かい銘柄は覚えていませんが、細いものを、と思って店員さんと相談しながら買ったものなので、小さい方眼でもストレスなく書ける程度の細さ加減です。
 心の筆記具とも呼ばれる万年筆は、お手入れの手間暇がかかる道具でもあり、使わないでいるとペン先が傷んだりして、毎日使うことが一番のお手入れだと言われています。しかし、万年筆をなかなか毎日使わないで燻らせているのが実情だった昨今、最近はこれ一本でがりがりとタスクや思考を思いのままに書いています。万年筆の書き味はそれぞれペン先に寄るので一概には言えませんが、私の持っているものはたぶん比較的やわらかな書き味で、紙に押しつけたときに僅かな弾力を感じます。それでいて、さらさらとしすぎず、ほんの先でほんの少しだけ紙を削っているような感覚が伝わってくるので、書くという実感を堪能できますし、その快さのまま書いているとますます筆がのります。筆ならぬ万年筆が。色彩雫の月夜がまたいい味を出していて、本当に好きな色です。そうしてどんどん書きたくなる。
 バレットジャーナルは検索するといろんな手帳が出てくるのですが、まあ~いろんなページが出てきて、ネットに出すだけあって「映え」なものが目立ちます。他人のを見ている分には綺麗なので好きで、マステやシールやカラフルな色も好きなので、手帳を活用しようと模索する中で真似を試みた時期もあったのですが、続かなかったのがその結果を物語っています。見ている分にはいいんです。だから今でもよく人の手帳は検索するし覗きます。でも真似しようとは今は思わない。今は、自分が使う中での、今の自分に合ったやり方が多分見つかったから。
 つまり、文を綴るのが好きだ、ということです。
 帰りが日付線近くになってしまうような時は必然的に手帳を書くよりも寝ることが最優先になりますが、最近は大体23時になったら机に向かって手帳を広げて紙面に文章を書いていくようにしています。書きたい時にいつでも書けるようにはしていますが、思いっきり文章を綴るのはある程度まとまった時間をとって一日の振り返りをできる寝る前の時間です。少ないときは半ページにも満たないし(それでも最近は大体1ページくらいは余裕で越えてしまう)、多いときには4ページ以上にも渡ってひたすら文を書いていく。満足するところまでとことん書いていく。最後まで書いていく。その時にいきつく達成感は、小説を一幕書き終える時の感覚に少し似ています。手帳に書くのはもっと気軽で、小説のように脳をごりごりに抉る感じとは似て非なるものではありますが、本質は同じだと思います。文を綴る、という行為それ自体においては。
 そうして埋まっていくシンプルなノートは、一ヶ月で100ページ近く埋めていく私の中ではとんでもない勢いになっていき(うち、デイリーログばかりではなく、読書記録のような記録用のページなども含みますが)、今年も終わりに近付いていくという中で1冊目で燻っていたMDノートは余裕で埋まり、2冊目を悠々と進めています。このなかなかびっちりと埋めていく感じが、たまらないんですよね……。本格的に書くようになってから、毎日欠かすことなく一ヶ月半程度続き、今は書かないと落ち着かない習慣になりつつあります。まあ、日記です。
 何が自分の中で合致するかはわからない。それはやってみなければわからない。やっていくうちに自分に合ったやり方が見つかって、そこにたいへんな喜びを感じたりする。デコレーションは楽しいけれど、できるだけささやかに。たとえば前述した執筆カレンダーくらいの程度で。彩りに思考を傾けると、そのことに夢中になってしまう。だからこの簡潔さでひたすら字を書いていく。
 それがどれだけ楽しいことか。
 ああ。結局、私は文を綴るのが、とても好きで、だから小説を書いたり、手帳を書いたり、こうしてやたらと長いブログを書いたりするんだな。物語を作り形にする手段はたくさんあれど、小説をメインにしているのは、絵の技術の足りなさだけではなく、文章化自体が好きだからなんでしょう。
 大昔の思春期時代、それはもう見せられない黒歴史そのものである、それこそ思考をそのままワードにタイピングしては消去する、といったどうしようもない根暗な時代がありましたが、その本質は今も変わらないんだと実感します。どこまでも根暗です。それはもう変わりようがありません。でも、あの頃と違って、もう少しポジティブに捉えられる。それも含めて私だし、そうした私だからこそ楽しめる行為があり、こうして思考をただただ流すことで膨大な文章にできることは、多分、それなりに胸を張れるというか、一つ、自分の頑丈な支柱になる要素だと思う。それを、嘘偽り無く、長所だと思っていたい。自分を認める一つであってほしい。声を大にして開けっぴろげに得意なこと、として言うようなことではなく、むしろ現実世界としては秘めておきたいこと。秘めておいて、力の根源にしておきたいもの。
 今ここまで何字だと思いますか。7000字をゆうに越えているんですよ。自作のことでも物語の感想でもなんでもないこと、自分のことという超個人的な記事で。一体誰が読むのか!まさに普段手帳に書き綴っている、思ったことを思った順に書いていくエクスプレッシブ・ライティングをそのままブログにやっています。すぐに書きたい、比較的短い事項はバレットジャーナルへ、腰を落ち着けて長く掘り下げたい、かつ公表しても良いという事項はブログへ、で馴染んできています。これも、自分の思考を外に出すことですっきりするための行為なので、どうか自分語り乙といって指を指さないでほしい。指されたところで、気に留めている暇は無いけれど。
 秋の陽光が眩い。静寂が満ちる部屋
 好き、をきちんと自覚して、満足するまで書き綴ったところで。
 お腹がすいてきたので、ごはんを作ります。
 お疲れ様でした。終わり。

1121「カレーライス作りが楽しくて右腕が筋肉痛になった話/新作で更に深まったハスボーの可愛さを語る回」

 どうもこんにちはこんばんは。
 ポケモンソード・シールドが発売されてからもうすぐ一週間が過ぎようとしていますが、皆様進捗の方はいかがでしょうか。私はかなり、本当にかなりまったりと進めているので、この雰囲気だととうにストーリークリアした人も既に続出していそうだなあと思っています。
 大体今のプレイ時間が14時間程度だと思うのですが、先程ようやく2つ目のバッジを手に入れました。世間的にどうなのかはわかりませんが、自分の中ではとても遅くて。何にそんな時間をかけてるかというと、ポケモンキャンプが自分の想定していた以上に楽しいんですねー。はい。
 多数のポケモン達がふれあっている姿というのは前作のサンムーンでも見ることができたし、今作は撫でることができないというのが地味に残念だなあと思っていたのですが、おもちゃ使って遊ぶのが楽しいし、そのおもちゃもカレーライス作れば作るほど新しい物が手に入るので、いろんなおもちゃを試してみたくてカレーライス作りが捗る。というかそのカレーライス作り自体が大変に楽しい。ああいう、食事系のミニゲームはかの懐かしきルビサファポロック以上にはまることはなかったのですが、カレーライスはなんかよくわかりませんがすごく楽しいです。多分カレーライスというそれ自体が好きなのだと思います。キャンプというそれ自体がすごく好きだからだと思います。うちわはともかく混ぜるのはDPのポフィンとかでやったんですが(ポフィンのリスペクトも含まれてるのかなあ)、なんでしょうね、あのカレーライスというそのもの、シンプルで現実的なものが、現実に近いからこそ想像力をかき立てられるというのか。ポケモンと主人公が一緒に食べてるあのカットがいいのか。木の実の他の様々な食材によって更にコレクション魂をかきたてられるせいなのか。木の実を選択した時の木製まな板にぶつかる「コン」という音が絶妙に良い音をしているからなのか。挙げれば細かい演出の良さが湧いて出てくるんですが、カレーライス作りが楽しいです。具体的にきちんと調べていないので最高級カレーライスを作るにはどうしたらいいのか手探り状態で未だにマホミル級が最高ですが。通信して複数人で力を合わせて作るのが一番効率が良い予感はしています。
 で、日曜か月曜日くらいですかね。右の二の腕が筋肉痛のように痛みだしたのは。
 重い物も持っていなければ特に運動した覚えもなく、ずっと不思議に思いながら仕事をしていました。以前に同じ部位を謎に痛めたことがあったので、それがぶり返したんだろうかと思っていたのですが、そこまで痛いわけでもない。まさに筋肉痛というような痛み。
 その日帰宅してからカレーライスのために右手でコントローラーを振って気付きました。
 これだ……!!!と。
 我ながらなかなか阿呆です。
 運動系のゲームでもなく、ポケモンミニゲームでまさか筋肉痛になるとは……。運動不足が露呈して笑っていたのでこれはブログに書きたくて秘めておりました。
 うちわはA連打、混ぜるのはスティックでもいける、などとプレイしている方には説明するまでもありませんが、感度が悪かったりAが絶妙にこのコントローラー連打しにくかったり、というかA連打の方が疲れるし、振った方が作っている実感があるしコントロールしやすいと個人的に思ったので振ってたんですが、筋肉に影響をそこまで及ぼしているとは思わなくて。同じ人がいないかなあとぼんやり願望を抱いているのですが、どうでしょう。
 今は腕全体を使わず手首のスナップだけ利かせてカレーを作っています。だいぶ負担が少なくなり何回やっても割と疲れなくなりました。腕は痛まなくなりましたが次は手首が痛まないか地味に心配です。弱すぎる己の身体……。
 そんなこんなでウン年ぶりにポケモンミニゲームに激ハマリしすぎて、ストーリーがまったく進みません。カレーライスを作るためには木の実が必要なので、自然とマックスレイドバトルも捗りますが、経験値アイテムがボロもうけできるのでミニゲームばかりしている割にレベルは充実しています。Wも溜まるので強い技レコードも買えますし……。カレーライスでも経験値もらえますしね……。今回のレベリングの楽さは尋常ではない。の割にバッジ1個のままでいろいろやってたので、ワイルドエリアの(レベルでは)格下のポケモンが「とても強い」になってバッジが無いが故に投げる隙が無くてゲットできないというパラドックスが起きています。ようやく2つ目のバッジが手に入ったのでイワークとかが捕まえられます。やったね。
 まったりやって楽しんでます。

 *

 ハスボーの話をしていいですか?(うずうず)
 今作でハスボーが出ることは把握していましたので、ハスボーに会えるのをめちゃくちゃ楽しみにしててワイルドエリアに出現することを期待していたのですが、初めに出会えたのはハスブレロで、いくら探してもハスボーがいないのでまさかハスブレロしか野生では出てこないんじゃないだろうかと地味に残念で(※今日ワイルドエリアで無事ハスボーにも会えました。いくら近付いてもまったく気付いていないかのようにかけよってこないのがちょっとまぬけっぽくて可愛い。でも草に埋もれててちょっと見えづらいのでもうちょっと出てきてくれたっていいのよ……!エリアでてとてとと動くあんよを見せてくれたっていいのよ……!)、ハスボーは孵化させて出会うこととなりました。序盤に育て屋(厳密にいえば育て屋ではないけど)があってくれて良かった。
 そのハスボーの卵が孵化した日の日記が以下の通り。

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 無我夢中で書き殴ってしまったのでお目苦しい字体ですみません。これが全て物語ってるようなものなんですが、もうねーーーーーー可愛いんですよね。ほんと、語彙力失っておりますけど、本当に可愛い。
 ハスボーの細かな動きというのはORAS等で既に知っていますし大きな動きの変化は無く、なでなでしたときの嫌がって「いやいやいや」と後ろに困った顔で下がるあの愛くるしい数々の一部の動作はあまり見れなくなってしまいましたが……。話すと、たくさんの表情を見せてくれるんですけどね!あ、カレーライス作ると跳び上がって喜んでくれますよ!カレーライス最高!あのねーーーーーーーソードシールドの良さの一つは「音」ですね。サンムーンでもこんなに音の表現されてたっけ……?されていたような気がしなくもないんですが、翼の音や、地面を蹴る音などが細かく演出されていて。バトルの時に技を発動した際などの些細な動きにもしっかり足音が入ってたりしててすごく好き。で、ポケモンキャンプでも、呼ぶとポケモンがこちらに寄ってくるじゃないですが、あのときもしっかりと足音が入ってるんですよ。あれがもーーーーーーねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーハスボーがねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー可愛いんですねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこれでサンムーンで既に実装されてたらちょっと恥ずかしいんですけど恐れながらきちんと覚えていない上にサンムーンではハスボーを連れてきていないので……お許し……。あのね、ハスボーに向かって、呼ぶでしょう。そして、あの子が気付くでしょう。そして、ハスボーの短い六本足が歩く時の、「こうだろうな」という連続的な少し忙しないちょっとぎこちない感じの足音。耳心地のよい「こんこんこん」とも「てとてとてと」とも表現できる可愛らしい足音。やはりテレビ向けでもあるゲーム機になって表現力が豊かになったからこその恩恵なのかしら。この足音、忙しない感じなんだけど短い足だから実際来るのはゆっくりとしたテンポなのが、実に良い。ほんと、遅いのwそれが壮絶に可愛いの!がんばれー!おいでー!もうちょっとだよー!って言いたくなるの!もうね、自分の表現力の拙さが悔やまれるとこなんですが、とにかく、聞いてください見てください。見ないとこの可愛さの本質はきっと伝わらない。可愛い。もともとのハスボーの良さに奥行きが加わったんですよ。更に良くなった。愛情が深まる。そしてねえ、おもちゃのボールを投げるじゃないですか。日記にも書いてるんですけどね。また足をせわしなく一生懸命てちてちと向かっていって、拾って、ゆっくりぐるーりと廻転すると、、めっちゃニコニコしてるんですよ!?やばくないですか!?一人で変な声出ますわそんなの!!ボールも(まあそこしかないんですけど)大きな蓮に乗せてねえ、持ってきてくれるんですよ!にこにこしながら!!!!!!!!もうね、ハスボーって小さいし六足歩行だし可能な表現というのはかなり限られている身体ではあるはずなんですが、そのハスボーの動きを豊かにしてくださったスタッフに泣いて感謝ですよ……オイオイオイ。可愛い。本当に可愛い。そして一緒にカレーライスを食べられる。可愛い。幸福しかない。これを読んでいるあなた、是非、ハスボーポケモンキャンプに連れだしてふれあってあげてください。
 バトルもとりあえずメインメンバーに並んでいます。あ!!言うのを忘れていた!!ダイマックスハスボーね!!!あの顔のまま素晴らしい迫力で君臨するハスボーダイマックスって基本的には大きくなるだけなんですが、大きくなるだけなのに、普段ごくごく小さなハスボーがやたら大きくなってそれだけでもすごく面白くてリアルに爆笑しながらめちゃくちゃスクショ撮ってしまうただのヤバい奴になっていました。スイッチは簡単にスクショできてしまうのでハスボーアルバムがやたらと増えていきます……。
 まあ、「ラナ」とハスボーはなんにも関係ないんですけどね!ポケモンシールドのラナとクロはやたらと仲が良く、クロからラナへのデレっぷりが凄すぎて日々笑いながらやはりスクショが止まりません。ただいい加減そろそろポニータに会いたいのでまじめにストーリーもちゃんと進めたいですね!
 さて、一心不乱に打鍵していたら4000字超えてしまったようなので、これ以上醜態を晒す前に、ここらへんにしようと思います。

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 やはりハスボーが大好きです。
 ルビサファから進化し続けるハスボーの愛くるしさ、いつまでもどこまでも大好きです。
 皆様、良いポケモンライフを。

1116「ポケモンシールドを始めたんですけど」

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いや!!!!ラナじゃん!!!!!(わかる人にしかわからない自作の話で恐縮)

(※上記画像は自室のランプがハスボーカラーなことにテンション爆上がりした時のものです)

発売前は全然そんなふうに思わなかったんですが、実際に触って動かそうとしたらなんかもう、ほら、ソファに座ってスマホいじってるあの横顔からもう、うわ、ラナじゃんと思って、正面向いても、ラナじゃんという感じで、もう……だってほら、髪型……前髪も含めて……自作としては今はもう少し伸びてる設定ではありますが切り立てくらいの長さとしてはこれは……背丈の雰囲気とか……驚きですよ……ね……はあ……まあ親バカと言われていいんですけど……完全にちょっと横髪が跳ねてるラナだなと思って……最初はリアルでもネットでも使えるよう本名に擦りもしないリアルのニックネームを使おうとしたんですが、これはもうそうせざるを得ないなと思って、始めて早々最初からにして、

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プレイヤー名ラナにしました!!!

おかげさまでリーグカードシステム楽しい!

なんかもうなにやっても最高に可愛いです。一挙手一投足が可愛いです。あくまでそう思い込んでやってるだけなんですが。久々に作者馬鹿を爆発させています。思わぬところから新たな世界線爆誕してしまった。ここから始まる別世界線で彼女はチャンピオン目指したり図鑑完成目指したり世界救ったりポケモンと触れ合ったりしていくんだなあと思うとなんというか……謎の感慨深さが……自分でやったにもかかわらず若干複雑さがありますが楽しそうに冒険してて何よりです(?)

そういうわけでゆっくりとですが楽しみ始めました、新しいポケモン。面白いですね。分かってたんですがグラフィックが凄すぎますね。序盤から信じられないくらい大量にポケモン出てきてびっくり。

最近ポケモンはせかせかとプレイする傾向があったので、今回はまったりプレイしたい所存。できるだけネタバレを踏みたくないあまりに安易にネットに繋げられない……。

あ、ちなみにパートナーはヒバニーにして「クロ」にしました。白なのに!性格としては真逆なポケモンなのに!ラナがクロを使役してるのとかクロが遊びたい遊びたいとはしゃいでるのとかなんかいろいろとはちゃめちゃなことになってます。勝手に。私の脳内で。別世界線ではこういうこともあり得るかもしれない……という公式に無理矢理二次創作を被せにいくこれまでそういえばやろうとしなかったスタイル。はあ楽しい。脳内が。

 

あまりにも見た目がラナと思ったことを言いたいだけでした。あとランプがハスボーなことを言いたいだけでした。ラナ可愛いよ!良かったらそのうちうちのラナと交換やバトルやしてやってください!はあ〜〜〜こうなるといよいよキキララポニータに会うのも楽しみだな〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!強制終了!おしまい!

1111「112話更新」

 まっしろな闇の112話を更新しました。

 自サイトリンク
 POKENOVEL様リンク


 上記リンクからも最新話にとべます。
 112話は慎重に煮込んでいたらいつのまにか煮込みすぎていたので、放出して、自由な世界に泳がせてあげようと思い更新しました。どうぞよろしくお願いいたします。

 以下は小説の内容とは全く関係の無いとりとめもない話です。
 ツイッターを離れて再三思うのはとりわけ創作という観点においては引きこもっていた方が100倍平穏を保っていられるということです。こうしていれば作品に余計な傷を負わせなくても済むし、私という余計な個人の色で作品の価値を曇らせるという事態を少しは回避できるわけです。誰かの目に簡単に入るSNS群と違い、ブログの文章なんてよほど私に興味がなければ、そしてある程度の長文に慣れていなければ読まれませんし、そういう意味では小説と似たようなものです。理想を言えばツイッターは個人的な感情をむやみやたらと壁打ちするツールではなく、作品のことやできるだけまともな文章を垂れ流すbotでありたいわけです。ブログの文章は小説と違って殆ど推敲をしていないし、浮かぶ言葉をそのまま打鍵しているという点ではツイッターとさほど変わらない気もするんですが、ツイッターの140字の呟きと比較するとまだ理路整然とした文章でありたいとは思って綴ってはいるつもりです。つまり今の状態は理想型に近いわけで、何よりも、良くも悪くも私への外部からの刺激がかなり薄いので、要らん一喜一憂が抑えられるわけです。あの感情の波が更新鬱を呼ぶわけなのです。じゃあもう一生引きこもっていた方がいいんじゃなかろうかとも思わないわけでもないのですが、じゃあこうすることで果たして「作品の宣伝」という役割をツイッターが果たせるかというと非常に微妙なところなわけです。でもたった一人でも読んで貰えれば有り難い・私がこの作品の一話一話の完成形に満足していれば良いという気持ちでいれば多少は不必要な強欲からは距離を置けるんですよね。いや、こういうやり方だと、そしてそもそも物語が面白くなければそもそも一人だって読んではもらえないという最も寂しい結果になる可能性がゼロではないんですが、それについてはあまり考えないようにしていますし、読みたいと言ってくださる方にあまりに失礼なので、それもまた不必要な憂いなわけです。過剰な期待と過剰な卑下はただの毒。尚、人嫌いになったわけでも交流を拒んでいるわけでもなく、一人になって、小説を含め自分自身と向き合っていたいだけなので、主人公近辺へ向けた叱咤激励を含めたご感想・ご指摘等はいつでもお待ちしております。いつもありがとうございます。

1107「僕の孤独が魚だとしたら――。100冊目を読んだ話」

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 うっかり100冊目で写真を撮るのを忘れていて、101冊目も既に入っている状態ですが、残りおよそ2ヶ月を残しながら目標である100冊読書を達成することができました。やったー!
 世間の読書家は100冊どころか200だの400だの1年で読んでいる方もおられるので比較してしまえば騒ぎ立てるような数字ではないのですが、読書が随分疎かになっていた昨今の私としては、本当によく読めています。月によってかなりの差がありますが、日付を確認するとちょうど半年で50冊の線を踏んでいるので一年という目で見るとそこまでアンバランスではなさそうに見えるマジック。
 見ているといろーんなことを思い出します。本の内容に限らず、その時生活がどんな状態だったのか、とかも。記録は良いもの楽しいもの。
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 100冊目は伊坂幸太郎のフィッシュストーリーを数年ぶりに再読しました。
 4つの短編が入っていますが、表題作がとりわけ大好きで、そんなに伊坂読んでなかったので、人気キャラ・黒澤と言われてもピンとこなかった当時。何故か新刊の帯がそのまま残っていて、どうしてもところどころ傷はあるが、保存状態は割と良い。平成21年なので約9年前か、と思うと昔のような思ったより最近のような、不思議な気持ちになります。読み返しても4編とも好きですが、やはりフィッシュストーリーの、展開の繋がり、伏線回収、救われる・報われる疾走感はなんともわくわくとした感情を味わわせてくれます。
 僕の孤独が魚だとしたら、そのあまりの巨大さと獰猛さに、鯨でさえ逃げ出すに違いない。
 僕の勇気が魚だとしたら、そのあまりの巨大さと若さで、陽光の跳ね返った川面をさらに輝かせるだろう。
 僕の挫折が魚だとしたら、そのあまりの悲痛さと滑稽さに、川にも海にも棲み処がなくなるだろう。
 孤独も、勇気も、挫折もすべて凝縮されている。様々な形で表現されている。もしも、もしもが全て繋がっていく爽快感。現実ではそんなのありえない、と一笑に付すこともできるかもしれないが、仮想だからこそできるまさに「物語の醍醐味が炸裂する」話だなあと強く強く思う。ヒーロー、世界、ロック、くすっと笑えるユーモアなエッセンス、嫌いになりきれない悪者、などなど、伊坂らしさが詰まってる。好き。きちんと言葉にできない。やはり好き。スタンダードというか、アクが薄いというか、誰に対してもオススメできます。
 細かくちりばめられていく伏線要素を鮮やかに回収していく、楽しい読書体験をさせてくれる作品に改めて感謝。
 新刊も読みたいなあ。未読の既刊もたくさんあるので読みたいなあ。
 そういうわけで読書欲の高揚はそのままに、まだ2ヶ月あるので、仮に1ヶ月10冊読むとしてもまだ20冊も一年のうちに読める!というわけでこれからもどんどん読んでいきますよ。

 ちなみに101冊目の流浪の月は海のベストセレクション2019にノミネートされそうな勢いでグッドだったので前情報をあまりいれずに読んでみてもらいたい所存。友達でも恋人でも家族でもない、その関係性には名前をつけられない、ただ傍にいたい。いびつに孤独に生きる男女のおはなし。読んでいたらぐんぐん物語の毒が身体に回っていって……没入。こういう話を書きたいと思っている部分があるので、創作脳も刺激を受けましたわ切ない話が好きな方におすすめ。凪良ゆうは先日ブログで紹介した美しい彼というBLノベルの作者なのですが、こちらは一般書籍となっております。今回これを読んでそもそも凪良ゆうが好きなのかもしれないなとやや確信じみたものを感じたのでこちらも作家読みしていきたいです。
 ところで100冊という目標を予想より早々に達成してしまったので年末に向けて何かもう一つ目標というかこれをできたらいいなというものを立てたいなと思い考えていたのですが、ちょうどkindleに、いつだったかダウンロードしたものの読めていなかった「宮沢賢治全集」という青空文庫の283作品(旧仮名や別文庫で物語自体は重複していたり最後には水彩作品が掲載されていたりしますが)をまとめたものがあるので、今書いている読書リストとは別枠で、年末までにこれを読破できたらいいなーと思って主にお風呂に浸かりながら読み進めています。これこそ作家読みそのものだ……何を読んだのかわからなくなるので手帳に全てのタイトルを書き写したんですが、8ページに渡っています。強烈。かなり短い詩から銀河鉄道の夜のようにそこそこ長いものもあるので楽しみながら読み進めていきたい。宮沢賢治の青く煌めく文章を堪能して、そして全部読み終えたら来年はどこかでまた岩手に行きたいです。
 そしてもう間もなく十二国記の続きが来るぞ!頑張って仕事をさっさと終わらせて飲み会の前に本屋に寄って買うんだぼくは!オオ!
 読書の秋はまだまだ続く。

 ところで多分もう少ししたらまっしろな闇を更新できるような気がしています。むんむん。そちらもどうぞよろしく、です。
 ここまで読んでくださりありがとうございました。

1101「10月の読書記録/HSP/もうすぐ100冊!」

 冷え込むようになり、外にいても部屋にいても上着がかかせなくなってきました。風邪をひきやすい時期だな、と思います。今年は例年より寒い冬になり、インフルエンザは猛威を振るうと風の噂で聞きましたが、果たして。気分の浮き沈みはあるものの、体調としてはうまくコントロールできている気がしています。とはいえ、急な寒さで身体を崩すことは仕方の無いことですので、皆様ご自愛ください。

 前置きもそこそこに、10月が終わったので読書記録を振り返ります。

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 計15冊。9月ほどではありませんので、あまり読めなかったような気がしていましたが、15冊となると大体2日に1冊くらいのペースで読めているので、私にしてはかなりよ速度です。
 ラインナップを見ていると、なんというか、赤裸々といいますか、開けっぴろげといいますか、その時の興味が色濃く繁栄された題名が並んでいるなと思います。
 10月といえば十二国記の最新刊が発売されました。台風がやってきていた日でしたね。強い雨風に負けず、近所の本屋に行ったら、明らかに同じ目的の人たちが同じように買っていて、なんだかほっこり。そんなことをできたのは、台風の直撃進路を免れていたからに他ならないのですが。簡単な感想は過去のブログに書いたのでこの場では割愛しますが、11月の続刊が待ち遠しくてなりません。そういえば、ここを読んでいるような希有な方で、QRコードで読み取れる書き下ろし短編を読んだ方はもうおられるのだろうか。私は11月の3,4巻を読み終えるまでは一応とっておくつもりでいますので、未読です。11月9日が発売日ですが、10月と違って、この日はあまりにも職場の出勤人数が少なすぎることと、夜に飲み会を控えているので発売日からがっつり読むということはできなさそうで少ししょんぼりしています。まあ、仕方なし。楽しみは後にとっておいて、先にやるべきことをきちんとやってから堪能するのもまた享楽。


 それから月末あたりでよく読んだのは、見れば分かるんですがHSPに関する書籍ですね。
 少し前にやかましい騒音や機械音に強烈な不快感を覚えているという話をブログに記しましたが、相変わらず続いております。通勤路を変えてできるだけ車通りの少ない住宅街の中を進む道を選んだり、音を流さずイヤホンをつけて洗濯機を回したりと音に対する直接的な工夫をして負担は軽減されていますが、そもそももっと根本的な問題、もともとの素質や、ストレスによるものが影響しているのではと考えているところに、たまたまHSPの記事を見かけて、興味を惹かれひとまずは本を読んでみることにしました。今、巷では話題になっているのでしょうか。私は読んでないのですが、「繊細さん」がブクログのランキングでも上位になっているので、ホットワードなのかなという予感はしています。
 Highly Sensitive Person略称HSPは、敏感すぎる人、という意であり、心理療法家であるアーロン氏が提唱した概念で、世界の5人に1人はHSPであると彼女は発表しています。音や匂いや色や痛みといった五感への刺激だけでなく、感情や言葉などさまざまな刺激に対し過敏に受け止める人間を指します。良く言えば感受性が高いということです。細かいことはググればいくらでも出てきますのでここでは割愛します。
 音に対する過敏性がとりわけひどくなったのはここ最近なのでなんともいえませんし、自分がそれに当てはまるかといわれると、そうである部分もあればそうでない部分もあり、それは十人十色人間がそれぞれ違うのと同じように、まったくそれと当てはまる人はいないわけで。ただ、思い当たる部分はあるので少なからずそういう面はあるのだろうなとは考えています。なのでHSPについて理解を深めるのは自分を知ることや未来を生きやすくすることにも少しは繋がるだろうという思いからでした。
 ただし、このHSP、セルフチェックが基本となり、かなり主体的な見方となります。占いや心理テストと同じで、そう言われてみればそう、これって私のこと?当たってるじゃん~に安易に至るのは興醒めだし冷静さを欠いている。
 私が読んだHSP関連の本はデンマーク心理療法士イルセ・サンの2冊と、精神科医岡田尊司の1冊になります。イルセ・サンはHSPとはどういう能力を持ち、どういう困難を持ち、そしてどう付き合っていくべきかを全体に優しい表現で書き抜いています(あと装丁が綺麗です)。海外の考えが根にあるのでやや日本人には当てはまりづらい部分もありますが、カウンセリングのように読んでいる人間に語りかけてきており、具体的にどうすることが喜びに繋がるのか、なおかつ障りの無いきれいなことばかり言ってるわけではないのが好ましい点でした。先に読んだ「鈍感な世界に生きる敏感な人たち」の方が個人的には好きです。
 岡田先生(医師だし思わず先生とつけてしまう)の本は、どちらかというと感覚的に物事が語られがちなこの概念に対し、臨床研究データや事例をもとに論理的にまとめた本になります。最初の数ページでHSPの概念に対してガンガン叩いていることからして素敵。しかしそのうえで、「過敏」と一言でいうには乱暴すぎるこの概念に対して医学的な側面から見つめます。ただの感覚的な話に収まらず、神経系の問題や遺伝的側面、育ってきた環境や、発達障害との関係、克服法など。日本人だからか前述したイルセ・サンよりも事例や具体例に親近感が湧きます。濃厚な一冊であり、「過敏性とは具体的に何者」という疑問に対してはこれで割と満足感は得られました。多分このジャンルの話題はわかりやすくて共感されやすいものが多いと思われるので、そういうものに比べると小難しさはあるかと思いますが、エビデンスに基づいた良質な情報を得られます。HSP関連について気になる方には薦められる。前述のイルセ・サンも個人的には好きですが。精神的側面が強い語り口としては良質な本だと思います。
 レビューやあらすじなどをもとに選んだたった三冊を通し読みしただけでいわゆる過敏性の何を知ったんだという気はしますが、ひとまずこれに関する知識は満足したし、もう少しこの三冊を読み込むのがいいかなと。知識を深めることは、自分を知ることに繋がる。自分を知ることは、自分に合った生き方に繋がる。それは学ぶ面白さの一つですね。

 さて、読書リストを見て貰えればわかるように、10月で年間の読了数が99冊に到達し、あと1冊で今年の目標である100冊に到達しようとしています。9月からたくさん読めているのが良いですね。まさに読書の秋です。
 この100冊の中には、1冊にカウントしても良いのか微妙なところでもある短編も含まれているのでちょっとずるをしている気もしていますが、それでもここ数年の中ではかなりの量を読めています。
 読書は娯楽。
 楽しいから読むには違いありませんが、多く読むことは何に繋がるのだろう、とこの一年考えており、いくつか、自分なりの言葉・答えが見えかけています。答えというのは一つではないし、そこに正解も不正解も無いし、いくらでも変容する。変わるからこそ、今、ここ、の考えはどこかに留めておきたいし、今年が終わる頃に、一年のまとめとしてきちんと言葉にして残しておきたいと思う。
 100冊目をどうしようかな、と10月末に本棚を眺めていましたが、大好きだけど、そういえばここ数年読み返していなかった本の中から一冊選ぶことにして、もう決めています。新鮮な気持ちで再読しております。

 さて、連休ですね。私は残念ながら仕事がありますが、遊びに行ったり、ゆっくり休んだり、思い思いに楽しい連休をそれぞれ過ごされますように。私も一日は休日があるのでその日は好きなことをして過ごします。
 秋の夜は長いですが、夜更かししてリズムを崩して体調を崩されぬよう。おやすみなさい。