0511「未来というのは希望なのか絶望なのか」

 貯金とか健康とか、要は未来への投資をいつからどれほどと考えるものなのだろう。貯金はした方がいい、健康には気を遣った方がいい、お肌は急に曲がり角にさしかかるからケアはしっかりした方がいい、エトセトラ、理想論はよくわかる。
 まあお肌はともかくとして。
 よく言われるのだけれど今の若い世代が高齢になったとき、年金は払われないだろうという話。銭勘定が大好きな人間なのだけれど、明細を見るとばっちり年金は支払われていて、それが割とがっつりとした額で、そうであることはわかっていたのだけれど、私たち従属人口帯が義務に沿って労働して稼いだお金で支えなければ超高齢社会は壊れるということもわかっているのだけれど、でも既に壊れてんじゃんという気もしなくもなく、完全崩壊をしないようお上は必死に考え現場は足を動かしているけれど、なんとなく私達の未来って終わってませんかねっていう気分にさせられる瞬間がありますよね。何も考えずただ言いなりになって歩んでとんでもない平手打ちを食らうのは他でもない私たちだろう。国内全土から集められる税金総額からすれば個人から引かれるお金なんてまああまりにも微々たるものであるけれど、個人たったひとり分のお金としてはそれなりに大きな割合を占めるわけだ。文句を言いたいわけじゃない、それなりに平等に誰もが背負っていることなのだし。だけど時々嫌だなと子供の駄々のように思ってしまうだけで。甘いと言われれば口を紡ぐ他なく。ぼんやりとした絶望感に駆られたりしながら、結局まずは社会の歯車となることが求められることであり、それに異論は唱えないよ。なにも、世に反旗を翻したいわけでも世に大きく出たいわけでもなくただ粛々と平凡に我慢しすぎず生きていたいだけなのだけれど。ただ生きていればそういう生活は保障されるものなのでしょうか。そういうわけにはいかないんでしょうね。こんな世の中だからこそ自分がどう選択するか、だよなあ。あまりに大きすぎる社会はこの際置いておいて、個人的な、今とこれからまだ長い自分の未来と、どうバランスをとって皆さんやっているんでしょう。それでなくとも生きているだけで金はかかるというのに。
 お金といえばたとえば大学を卒業するまでにかけられた自分のお金。胸がつかえる。それに見合うだけの人間になれるかどうかとか。子供を育てきる親というのは立派すぎやしないだろうか。そして普通にしていれば親が先に死んでいくのだ。隣り合わせであっても普通に考えればより近いのは年齢が上の方だ。ここまで貴重な時間と金を子供に費やしてきたところで、体力は落ちていつの間にか随分老いていたその人に向けて、何をしてやれるのならその不安をとってやれるのだろう。生きているだけで老い、誰かは死んでいく。
 お金の話なんだか親の話なんだかよくわからなくなってきたけれど、こういう不安に雁字搦めになってしまって沈み込んでしまう時がある。仕事中だというのに何故だか親の葬式について思考が過ぎって、帰ってからは母の日のことを考え、そして同時に、お金を使って叶えたい自分の欲求について考えていた。貴方はどう考えてどうバランスをとって、ブラック未来に向けてあらゆるやりくりをしたいと考えていますか。私はぼんやりとした不安が先行しすぎて具体性が見いだせないし、これは今日に限った話ではなくずっと考え続けている課題であるので、とりあえず無難に貯金はしておくべきだなあとこれまた結局理想論に沿ってとりあえずやっておいた方がいいことをやっておこう精神でぼやぼやもやもやとしつつ、明日もあることだし寝ます。