0806「壁に焼き付く影」

 日付を見るたびに薄らときのこ雲が浮かぶような一日だった。平成最後のこの日なんですね。
 感傷的になるわけではないし触れるのが難しいことなのかもしれないけれど。変わらず仕事をしていたけれど。
 何もかも失ったところからもう一度生まれ直したような国に生まれて、今やとても恵まれているのに、どこか常にさみしいのは何故だろう。ちゃんと懸命に生きているのだろうか。
 何度か広島には訪れているけれど、小六の修学旅行で行ったきり原爆資料館には足を運んでいない。気付けば随分と昔の記憶だというのに、廊下を抜けて少し開けた部屋の、右手側にあった(はずの)蝋人形の衝撃というのは色濃く残っていて、ビジュアル面での訴えというのはとても重要だと思っている。多少脳天を叩くくらいのものじゃないと平和呆けした私達には響かない。とはいえあの蝋人形は撤去されたという話で、回避可能ならばできるだけ痛みを避けようと世間が動くほどに、回避すべきではない痛みまで無くなってしまっているような気がする。これに限った話ではないけれど。「見る・見ない」や「やる・やらない」を選択できる自由すら最初から奪うのは時に暴力的。
 とはいえ偉そうに言えるような人間ではまったくなく、明日やってくるいつも通りの日常を信じて疑わないし、毎日を生きることで精一杯だし、それもまたある種幸せなんだろう。
 今日は夕暮れ時に退社して、田圃や低い建物群の上空を、薄い雲が地平と平行に伸びていて、空は柔らかな萱草色をしていた。いつだかのひなげしを彷彿させる色をしていた。美しい空だった。美しい日であってくれて良かったと思った。
 今日もよく頑張りました。明日も生きていきましょう。