1126「「すべき」から「だったらいいのに」へ/文を綴るのが好きだという話」

 今回の記事は長いです。8000字ほどあります。

 

 休日です。
 休日前夜はよく気の済むまで夜更かししていて、平気で三時まで起きていられたりしたのですが、最近はとてもそんな深夜まで起きていられなくて、遅くても一時くらいには布団に入ります。そして平日のお休みだと大体消すのを忘れていたアラームが鳴って、習慣づいた時刻に目が覚めます。そのままもう一度眠りにつくこともあれば、うんとこしょと起き上がることもある。今日は出さなければならないゴミの日だったので、普通通りに起きなければ間に合わない。
 朝のまどろみを噛みしめながら昼までだらだらするのは好きですが、午前中にやりたいことをしたり、やるべきことをしたりして、お昼を迎えるのはもっと好きです。午前中って、まだ有り余った力があるせいか、やり始めるとすとんすとんと物事が進んでいって、それでも「あれまだこんな時間」と思えるのが好きです。まだ今日という一日はたくさん残されている。夜の終わりゆく静けさも好きですが、それとは違う、小さな高揚感に包まれます。
 今日は掃除機をかけて、トイレ掃除をして、洗濯をして、などなど、やりたかった家事を進めていました。
 朝起きたばかりの頃、外は曇っていましたが、時間が進むにつれて眩い陽光が差してくるようになりました。一応は南向きの部屋なので、昼間になるほど強く照らされます。こういうときの躊躇いなく入ってくる、目を細めるようなあたたかな光にそれだけで心の奥深くがやわらかくなるのを実感します。11月ももうじき終わろうとしていますが、気温もさほど低くなく、窓を開けていてもそれほど苦ではありません。一人暮らしをしてワンルームなどに住んだ経験のある方にはある程度賛同を得られると思うのですが、独居向けの部屋は風通しがそれほど良くないです。空気の通り口が、玄関と一つの窓くらいしかないし、まあ玄関を開けっ放しにしておくのは安全上怖いので、余計に空気がたまりやすい。だから時折光をきちんと部屋に入れてあげたり、窓を開けて新鮮な風を流してあげると、それだけで再び息をし始めたようなそんな気配がします。特に寒くなってくると、暖房をつけたりしてますます空気が悪くなりやすいので、こういう瞬間というのは貴重です。もう少し寒くなったら、少し換気するだけでもうたくさん、となって、余裕を感じられなくなっていくんだろうな。
 という、たいへん他愛もない話を書くだけでも、ここまで何字だと思いますか。はてなブログは書いていると自動的に字数が計上されていくのですが、「何字だと思いますか。」の句点でちょうど1000字だそうです。
 ブログの文章は肩の力を抜いているうちに字数が嵩んでいくのですが、小説の文章はその時々によって、無意識のうちに数千字叩きだしていることもあれば、頭をひねくり回して数百だとか数十だとかそのくらいしかいかないこともままあり、字数が全てとまでは言いませんが、物語を進めるという点においては字数は単純な指標になります。その日の体調によっても変動するし、単純にどれだけ時間があるかでも変動するし、ただ、その中でも、たった一字でもいいから一日に一度はポメラを開いて小説を進めようと思い、手帳に新しいページを作りました。
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 創作カレンダーというなんのひねりもないですが、見ての通り毎日何字書いたかを記録して、週末には合計を出すという、決して新しくはない試みを始めてみて、見ての通り一週間ほどが過ぎました。飲み会や残業で執筆どころではなく寝た日もありますが、だいたいのところ続いております。三日続いたら大体オッケーと思っています。
 これを始めた時は「1日に1000字書いたら1週間に7000字確実に書ける」ことを意識していたのですが、一週目にして1日に1000字という目標による自らへのプレッシャーがしんどくなり、途中から「1字でも書けたらいいな」というゆるいスタンスにすると割と無理なく続いて、結果的には先週は7000字どころか9000字を越えるという結果になりました。それは勿論21日(つまり休日)に夢中になって進めたことが大きく影響しているのですが、最近仕事でもなんでも「時間がある時に一気にやろう」という考え方の危うさを感じていて、勿論、時間があるときじゃないとできないことは必然として存在するのですが、日々の積み重ねや、ちょっとした時間に進めていくことが、事を為すのに重要であり、特にその目標が大きければ大きいほど当てはまると思います。だからそれなりに進めることができたのは、少しでも書こうと意識して行動したことに理由があるだろうし、意義はそこに存在しています。勿論こうして書いた文を最終的に使うかどうかは別問題だし、決して字数が全てではないということは声を大にして言いたいのですが、それでもきちんと進んでいるよ、というわかりやすい指標になってくれます。数字は嘘をつかない。
 そもそもの性格、完璧主義なところと妙にストイックなところがあるので、目標を立ててそれに向けて前進することが好きでした。しろ闇も部分部分でそういった目標のもとにひたむきに走った時期があり、そうして得られるものも多くあります。だけど逆に「こうしなければならない」という義務感が焦燥感を生むことはあるし、学生生活を終えてあらゆる「やらねければならない・こうしなければならない」に塗れていった時、だんだんと自分自身へ義務づけていくことが苦しくなっていきました。わざわざ自分に責務を課さずとも、自然と義務は降ってくるので。個人的な話、特に今は職場の目指すノルマのハードルが驚くべき速度で上がっているので、気力が追いつかなくなることはたびたびあります。
 とある本で琴線に触れたくだりがあって、「すべき」から「だったらいいのに」に変換するというものです。希望と願いは区別できる、と著者は語り、「するべき」と道徳化するよりも、願いに基づいた言葉を発することを静かに勧めます。この部分では特に対人において、そうして変換することで、自分の思うようにならない不満や怒りが悲しみや悲しみに由来する思いやりに変わり、平穏になるのだと言います。なんていうと若干宗教染みた文章になりますが……。でも、この考え方はさほど的外れではないと思います。他人に対する許容範囲が広がりますし、自分自身への許容範囲もまた広がります。根がまあまあ完璧主義人間なので、無意識のうちに「~しなければならない」だとか「~するべき」だと考えてしまうのですが、それを後から「~だったらいいのに」へ変換するということを、最近は意識しています。生きている全てが必須タスクなわけがないし、義務というのは達成できなかった時の自責や自己嫌悪といった様々なリスクとの背中合わせです。少なくともそういったリスクが減る分、ちょっと楽になります。できたらいいな、でもできなくても仕方ないな、でもやっぱりできたら嬉しい、みたいな。
 だから最低1000字ではなく、もっと最低ラインの、1字でも書けたらいいな、で書いています。そしてこの日々シールを貼ったり最終日に可愛いシールを貼ったりするのがまた楽しくて。あ、可愛いでしょう、このピカチュウ。昔買ったフレークシールです。
 日々に彩りと願いを含めて生きていく。うまくいかないことばっかりじゃなくて、うまくいくことだってきちんとある。挑戦は失敗することだってある、でも失敗は悪いことじゃない。何かを少しでも為せばそれが自信となって、また違う挑戦にいどむ勇気が生まれる。それは一朝一夕に得られるものではなく、日々のつらなりの中にこそ存在する気がしている。だから、日々小さくてもいいから何かを積み上げていく意識を少しばかり持っていられたらいいなあ、というこの頃。

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 何かを積み上げる、というのは即ち習慣化、という言葉に変換できますが、社会人になってから習慣化できたな、と自信を持って言える唯一は、弁当です。今や作らなければ居心地が悪い、という。
 もう一つ最近になって習慣化しつつあるかな、と思っているのが、手帳です。
 月々の読書記録や先程の創作カレンダー、前回のハスボーのくだりなど、クリーム地の方眼紙なので察せることではありますが、全て同じ手帳に収められています。
 手帳自体は高校生あたりから毎年毎年形を変えて使っているのですが、満足に使えたと言い切れる一年は正直無いです。たいてい、どこかで飽きて数ヶ月放置します。高校生の時は毎日変わる時間割をメモするのに使っていたのでいやでも毎日開いていたんですが、大学になると授業の時間割は変動しないし、管理しきれないほど予定を埋める人間でもないので、さほど必要性がなかったというのが実情です。
 ただ、タスク管理は物凄く下手で、予定があるのに同じ日に予定を入れてしまって迷惑をかけるという経験が一度や二度ではなく、後先考えずに行動したり、あるいはやるべきことを後回しになって苦しむという経験にほとほとうんざり、自己嫌悪という悪いサイクルから脱したいという思いは常々抱いていました。その中で昨年の中頃から始めたのがバレットジャーナルという手帳管理方法です。
 バレットジャーナルとググればそれがどういうものかは具体的に出てくるので細かいことは割愛しますが、手帳というより自由帳のような側面が強いやり方です。公式でも手帳術というよりノート術として紹介しているように、一本のペンとノートがあればできるというのが基本スタンスにあります。ToDoリストや日記やスケジュール帳やスケッチブックなどなど、様々な要素を一冊のノートにまとめて管理しようというもので、バレットとは「点」を表し、思いつくままにこの点と共にタスクを連ねていってパッと見で必要なタスクを判断したり、アイデアをわかるようにしたりします。
 ただ、これも去年の六月に始めたものの、去年半年ずっと続けられたかというとそれは「NO」で、一冊使い切れずに今年に入ってからは同じ種類のMDノートでバレットジャーナルを続行しましたが、それもやはりうまく続かないことも多く。唯一、年間通してうまくできてるのが「読書記録」でした。
 6月や8,9月がほぼすっぽり抜けていたり(抜けていた理由は思い返すと納得できますが)、その他の月も毎日できていたわけではなくて。バレットジャーナルは書けなくてもいいよ、書きたいときにいつでも続きから書ける、というのが良さの一つなので、手帳にありがちな「書いてない期間が空白になって嫌になる」という感情が抑えられるのですが、それにしてもなんとなく使えない感じでした。
 今年の10月半ば頃。ツイッターを離れて、生活や仕事や心の在り方を悶々と考えたり、様々なストレスに対して嫌になっていた頃。その一方、やたらと読書していた時期でもあったので、勢いそのままに、ずっと積み本になっていたバレットジャーナルの公式の本を読み始めて、またMDノートを開くようになりました。
 どんな些細なことでも、頭に浮かんだことをできるだけ手帳に書く。思考を紙に転写する。やるべきことも、アイデアも、他愛もない出来事も。悶々、ぐるぐると脳を延々に支配していた思考を紙に書くと、憑きものが落ちたように思考が楽になる。あれもこれも、と考えていてキャパシティ限界まで膨らんでいたものが、書き出すことで容量に余裕ができる、という感覚に近いです。人間の脳は1日に6万個の事柄を考えているそうで、その全てを書き取ることは無理です。ただ、それだけ考え続けているわけですから、それなりに疲弊もするし、その中には本当は留めておきたかったけど忘れて消えてしまう思考というのもあるわけです。ぐるぐると頭で考え続けてしまうタイプなので、その時その時は脳内で盛り上がるんですが、やがて落ち着いて消えていって、後には疲労感と妙なもやもやと「何を考えていたんだっけ」という虚無感が残っていたりします。頭の中だけでどれだけ考えてもたいていのことはすっきりしないんですよね……。
 だから、タスクだけではなく、その瞬間に過ぎっている言葉や思考をどんなに長くなっても良いから流れてくるままに書く、という、エクスプレッシブ・ライティングと呼ばれるらしいことをするようになりました。いろいろ模索する中で、後からそういう名前で呼ばれることであるらしいことを知りました。なんか文面はかっこいい。
 書くこと自体がめっきり減っている昨今、その行為自体にも心地良さがあり、やはり書く行為にはストレス発散という意味でも大きな効果を得られるそうです。ホムンクルスの小人の奇妙な絵が表すように、手というのは過敏な神経が集中しているので、手を動かせば動かすほど脳がより活性化するのは自明の理です。
 書き出すことで自分の感情や思考とそのまま向き合い、違う視点で自分と対話することができる。思考を外部に表すことで、忘れたくないことを記録することで、安心して脳から忘れ去ることができる。より深く思考を掘り下げることもできる。
 それはとても楽しい。

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 昨日のページはきれいに2ページ収まっているしわかりやすく下から上に上がってる自分の思考状態が見えますし、仕事についてほとんど具体的に語っていないので比較的見せられる感じになっているので、こんな感じにやってます、というのを。見せられるというのっけからアニメイト予約……。

 自分でもぱらぱらとめくるだけでそれなりにどどこもかしこも圧巻の文字圧で凄みを感じるので引かれてもおかしくないんですが、今は毎日大体こんな感じで書いています。小難しいことも、ネガティブも、ポジティブも、まとめる。バレットジャーナルというより呟き帳というかなんでもノートというか自由帳というか、でも自分なりのバレットジャーナルです。人によってノートの中身はそれぞれ。

 筆記は結構前に、一本くらいはまともな筆記具を持ちたいと思って買ったセーラーの万年筆です。細かい銘柄は覚えていませんが、細いものを、と思って店員さんと相談しながら買ったものなので、小さい方眼でもストレスなく書ける程度の細さ加減です。
 心の筆記具とも呼ばれる万年筆は、お手入れの手間暇がかかる道具でもあり、使わないでいるとペン先が傷んだりして、毎日使うことが一番のお手入れだと言われています。しかし、万年筆をなかなか毎日使わないで燻らせているのが実情だった昨今、最近はこれ一本でがりがりとタスクや思考を思いのままに書いています。万年筆の書き味はそれぞれペン先に寄るので一概には言えませんが、私の持っているものはたぶん比較的やわらかな書き味で、紙に押しつけたときに僅かな弾力を感じます。それでいて、さらさらとしすぎず、ほんの先でほんの少しだけ紙を削っているような感覚が伝わってくるので、書くという実感を堪能できますし、その快さのまま書いているとますます筆がのります。筆ならぬ万年筆が。色彩雫の月夜がまたいい味を出していて、本当に好きな色です。そうしてどんどん書きたくなる。
 バレットジャーナルは検索するといろんな手帳が出てくるのですが、まあ~いろんなページが出てきて、ネットに出すだけあって「映え」なものが目立ちます。他人のを見ている分には綺麗なので好きで、マステやシールやカラフルな色も好きなので、手帳を活用しようと模索する中で真似を試みた時期もあったのですが、続かなかったのがその結果を物語っています。見ている分にはいいんです。だから今でもよく人の手帳は検索するし覗きます。でも真似しようとは今は思わない。今は、自分が使う中での、今の自分に合ったやり方が多分見つかったから。
 つまり、文を綴るのが好きだ、ということです。
 帰りが日付線近くになってしまうような時は必然的に手帳を書くよりも寝ることが最優先になりますが、最近は大体23時になったら机に向かって手帳を広げて紙面に文章を書いていくようにしています。書きたい時にいつでも書けるようにはしていますが、思いっきり文章を綴るのはある程度まとまった時間をとって一日の振り返りをできる寝る前の時間です。少ないときは半ページにも満たないし(それでも最近は大体1ページくらいは余裕で越えてしまう)、多いときには4ページ以上にも渡ってひたすら文を書いていく。満足するところまでとことん書いていく。最後まで書いていく。その時にいきつく達成感は、小説を一幕書き終える時の感覚に少し似ています。手帳に書くのはもっと気軽で、小説のように脳をごりごりに抉る感じとは似て非なるものではありますが、本質は同じだと思います。文を綴る、という行為それ自体においては。
 そうして埋まっていくシンプルなノートは、一ヶ月で100ページ近く埋めていく私の中ではとんでもない勢いになっていき(うち、デイリーログばかりではなく、読書記録のような記録用のページなども含みますが)、今年も終わりに近付いていくという中で1冊目で燻っていたMDノートは余裕で埋まり、2冊目を悠々と進めています。このなかなかびっちりと埋めていく感じが、たまらないんですよね……。本格的に書くようになってから、毎日欠かすことなく一ヶ月半程度続き、今は書かないと落ち着かない習慣になりつつあります。まあ、日記です。
 何が自分の中で合致するかはわからない。それはやってみなければわからない。やっていくうちに自分に合ったやり方が見つかって、そこにたいへんな喜びを感じたりする。デコレーションは楽しいけれど、できるだけささやかに。たとえば前述した執筆カレンダーくらいの程度で。彩りに思考を傾けると、そのことに夢中になってしまう。だからこの簡潔さでひたすら字を書いていく。
 それがどれだけ楽しいことか。
 ああ。結局、私は文を綴るのが、とても好きで、だから小説を書いたり、手帳を書いたり、こうしてやたらと長いブログを書いたりするんだな。物語を作り形にする手段はたくさんあれど、小説をメインにしているのは、絵の技術の足りなさだけではなく、文章化自体が好きだからなんでしょう。
 大昔の思春期時代、それはもう見せられない黒歴史そのものである、それこそ思考をそのままワードにタイピングしては消去する、といったどうしようもない根暗な時代がありましたが、その本質は今も変わらないんだと実感します。どこまでも根暗です。それはもう変わりようがありません。でも、あの頃と違って、もう少しポジティブに捉えられる。それも含めて私だし、そうした私だからこそ楽しめる行為があり、こうして思考をただただ流すことで膨大な文章にできることは、多分、それなりに胸を張れるというか、一つ、自分の頑丈な支柱になる要素だと思う。それを、嘘偽り無く、長所だと思っていたい。自分を認める一つであってほしい。声を大にして開けっぴろげに得意なこと、として言うようなことではなく、むしろ現実世界としては秘めておきたいこと。秘めておいて、力の根源にしておきたいもの。
 今ここまで何字だと思いますか。7000字をゆうに越えているんですよ。自作のことでも物語の感想でもなんでもないこと、自分のことという超個人的な記事で。一体誰が読むのか!まさに普段手帳に書き綴っている、思ったことを思った順に書いていくエクスプレッシブ・ライティングをそのままブログにやっています。すぐに書きたい、比較的短い事項はバレットジャーナルへ、腰を落ち着けて長く掘り下げたい、かつ公表しても良いという事項はブログへ、で馴染んできています。これも、自分の思考を外に出すことですっきりするための行為なので、どうか自分語り乙といって指を指さないでほしい。指されたところで、気に留めている暇は無いけれど。
 秋の陽光が眩い。静寂が満ちる部屋
 好き、をきちんと自覚して、満足するまで書き綴ったところで。
 お腹がすいてきたので、ごはんを作ります。
 お疲れ様でした。終わり。