0509「Aqua Timez」

 ひなげしですが、今日見たら花がいくつか咲いていて、まだ開いていない蕾があったことに気付きました。群れのように生えているのだからそりゃあ蕾の一つや二つあったっておかしくなく、あの雨ですべて死んだような感覚になっていたけれど、考えが浅はかだったというか単純さに気付かなかったというか、兎に角、ああそうか完全に死んだわけではなかったのだ、後から膨らむものもある植物の当たり前を目の当たりにした朝。植物の常識に欠けている。ところで今朝は自転車で、また通り過ぎてしまった。昨日言った「今度こそ立ち止まろうと思う」という発言は一体なんだったのか。そういうものだ。

 Aqua Timezが解散するという報道があった。
 最初は、ガセだと思った。なんて悪い冗談だろう、と。しかし、真実だった。眩暈を覚えた。
 えらくファンだったわけではないし知っている曲も随分限られているのだけれど、ちょうど漫画やアニメの熱が濃かった青春時代、BLEACHの大ファンだったので、自然といくつか熱心に聴いていた。ごくせんもあった私の世代周辺はきっとクリーンヒットだった人も多いだろう。MD全盛期だ。私もAquaの曲を焼いたMDを持っていた。虹、しおり、千の夜をこえて、ALONES、Velonica……Velonicaは、早口言葉のような歌について、歌詞カードを見ずに必死に聞き取ろうと友人と美術室の黒板を使って楽しんでいたのをよく覚えている。実に格好良い曲なので是非聴いてほしい。

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「ここではないどこかを目指す理由とは 心ではないどこかに答えはないと知るため」

 久しぶりに聴いたら自作的な意味ですごいずどんと突き刺さってくるので自分でも改めてじっくり聴こうと思う。滑舌は悪いけれど雪崩のような曲を歌うのが好きなのでカラオケでも毎度歌っていた時期がある。嘗て擦り切れるほど聴いた曲だ。

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「向き合いたい でも素直になれない」
「まっすぐに相手を愛せない日々を 繰り返してはひとりぼっちを嫌がった」
「あの頃の僕は無傷のまま人を愛そうとしていた」

「好きな人には好きって伝えるんだ」と何度も繰り返す千の夜をこえてのストレートさも好きだけれど、上記の部分が好きだ。特にバックの演奏がほとんど静かになっての「無傷のまま人を愛そうとしていた」の声がたまらなく好きだ。今改めて聴いてもなんだか胸に傷をつけられる感覚がある。人と関わることって最早それだけで何かしらの傷をつけていくじゃないですか。愛とか恋とかは相手と自分の間の激しい感情の形で、無傷で得られるようなものじゃなくって……ハッとさせられませんか。これは人と人の愛情に限った話ではないんじゃないかなと今改めて聴くと思う。「伝える」こととか「関わる」ことがどんどん遠くなったり鬱陶しく思ったり苦手になっていく自分なので。でも伝えなきゃ伝わらないんだっていうことも痛いほど実感している。ひとりぼっちもまた寂しくなる。
 無傷で生きるなんて、無傷で人と関わるなんて、土台、無理な話だ。私も含めみんな自分がかわいいし自分の心は労りたいし、過度な自己否定をするくらいなら圧倒的にそれは大切なことなんだけれど、好きなひとであったり好きなものであったり、欲しいものを手に入れるためならいろんな形の代償が必要になる。「無傷のまま人を愛そうとしていた」。傷つかずにいられたらどれだけ楽なことだろう。でもひとりでいても傷つくし、誰かといても傷つくし、まるで八方塞がり。世知辛いものですね。けどその傷を癒やすのもまた「誰か」なのだと思う。実に矛盾だらけだ。「好きな人に好きって伝える それはこの世界で一番素敵なことさ」。最後に用意されたフレーズ、傷ついてでも踏み出す尊さについて。ストレート。ドがつくストレート。でもこれはここまでの歌詞があるからこそ輝く。美しい作品だと思う。

 Aqua Timezの、美しいものと汚れたもの、温もりと冷たさ、幸福と苦悩が共存した歌の数々が好きだった。一筋縄ではいかないことばっかりで辛くても、生きるのは、人は、愛は、未来は素晴らしいぞ、なんて謳歌、疾走するような歌(そればかりではないけれど)。青春時代に確かに触れ、確かに感化されていた。
 繰り返すけれど私はAqua Timezは本当に限られた曲しか知らないし、最近の曲はもっと知らない。それでも大好きな曲があるし、思い出もたくさんある。解散すると知って慌てるように、ウォークマンに入ったままの曲をリピートしながら出勤し、あるいは皿洗いをし、あるいは洗濯をし、そしてこのブログを書いている。帳尻合わせのようだ。
 単純に。
 解散が寂しい。
 なんて思うのは、あまりにも都合が良すぎるだろう。それでもあえて言いたい。寂しいと。
 公式サイトに載せられたメンバーからの言葉を読むと、熱心なファンでも無いのに涙がこぼれてしまう。ごめんなさい、と何度も言う彼等を、見ていられなくなる。こんなに謝られてしまったら、ファンが気の毒に思うくらいに。あまりにも切実で、そこにいるのはただそれぞれ、等身大の人間だった。どうか、どうか彼等の未来がしあわせであることを願う。私にとって大切な楽曲を世に出してくれたことにここで一度感謝したい。
 本当にありがとうございました。
 最新アルバム、明日借りるか買うか、してきましょうか。明日は休みです。

0508「美味しい塩パン」

 まず昨日の記事のその後。
 結論から述べれば、ナガミヒナゲシは散っていた。
 その未来を全く予想していなかったわけではないけれど、何故か割と心の底から今朝もあのオレンジを見られると信じていた。細い茎や繊細な色味は確かに弱そうなイメージだけれど、雨に打たれて首を擡げていた様子からは、雨など降れば瞬く間に散っていく桜なんかよりもずっと堪え忍ぶような印象を受けたせいだ。
 今朝はちょうど雨こそ降っていなかったけれど、花は完全に落ち、その根元のあたり、潰れて汚くなったオレンジの花弁がコンクリートにへばりついていた。それもたった一枚か二枚残っているばかりで、きっと風に吹かれ雨に打たれ、或いは車に轢かれ粉々に磨り潰されて、どこかに消えてしまったのだろう。花弁を失ったところには額と、実のようなものが残っていた。時間に余裕はあったけれど、写真も撮らず、さっと観察しただけでそのまま通り過ぎてしまったのでじっくりと眺めたわけではない。どこかショックな気持ちを携えた朝だった。花は儚く刹那的だ。けれどタイミング良くその美しい姿を見られたのは運が良かったと言えるのかもしれない。爆発的な繁殖力というのなら、良いか悪いか、今後も見る機会はあるだろう。その時は、今度こそ立ち止まろうと思う。

 ひなげしの話はここで一度終わらせて。
 基本的に毎日職場と家を往復する日々を送っているわけだけれど、その道の途中に美味しいパン屋がある。パン好きな同期が教えてくれたお店で、試しに買って食べてみたら確かに美味しかったので最近自分の中ではブームになっている。
 朝は降っていなかったけれど天気予報通り夕方から雨は降り続いていた。雨の日は二割引らしい。今日は少し落ち込んだ帰り道だったので立ち寄ると、売れ残ったパンがいくつか並べられていて、私の一押しである塩パンもいくつか残っていた。恐らく店の代表格であろうその塩パンがそれもう旨いのだ。明日の朝のためにも買うか逡巡して、結局今夜の一つだけ買うことにした。割引は会計の時に気がついた。100円が二割引、税込み価格で86円。申し訳なくなるほど安い。雨の日に喜びを感じる。
 塩パンは嘗て私の母親がはまっていて、その時の影響と名残で見かけるとつい買ってみたくなってしまう。
 この塩パンはバターがふんだんに含まれていて、家でレンジで温めてすぐに食べるのがお決まりなのだけれど、ほどよく温めるとパン生地はちょっと力を入れただけでひしゃげる具合になり、固めのパンを好む人からしてみればちょっと邪道かもしれないが、この柔らかくなったパンを噛むと、さく、とやや固い生地の奥はふんわりと柔らかく、染み込んだバターが一気に口の中で溢れるのだ。じゅわ、という音が聞こえてきそうなレベルのそれ。これが旨い。優しくて濃厚であたたかなバターに、アクセントのきいた塩気が混ざってそれはもう頬までバターと共に蕩ける勢いだ。ちょっと大げさのように感じるかもしれないのだけれど兎に角この塩パンが大変美味しく私の大のお気に入りであるという点を理解してほしい。そして切ないことに瞬く間に口の中から消えていき気付いたら手の中からも消えている。一瞬の出来事だ。しかしその時確かに幸福になれる。
 普段の100円でも安いくらいなのに、それが今日は86円。なんて有り難いのだろうか。この塩パン、偶に夜は売り切れていたりする。その瞬間はひどい脱力感に見舞われるのだけれど(もちろん他のパンも美味しいものの)、多めに作ってあるだろうに、人気なのは一般的な評価としても高いことの表れだと思う。これからも足繁く通っては塩パンを買うのだろう。
 そういうわけでちょっぴり沈んだ夜も美味しいもので静かに上昇軌道に乗せて、粛々と過ごすのみ。食べ物が日々を彩ってくれる。明日も頑張りましょう。

0507「道端に咲いていた花のこと」

 GWは3日のみ出勤して、4日からは3連休をいただいていた。家族がやってきたのでお給金を使ってご馳走したり、親戚の家に行ってゆっくり話をしたり美味しいものを食べたりしていた。この連休で自分自身に関することとして大きな変化といえばプリンターを買ったことなのだけれど、それは追々ネタが切れたら話そうと思う。

 連休明けというのは往々にして憂鬱なものだ。世間では連休など無かったと言う方もおられることはよくわかっているが(誰かが休日に働いていることで休日を休日として過ごしている誰かが羽を伸ばせていることを忘れてはいけない)、それはそれこれはこれで、兎に角私は連休だった。そして今日は連休明けだった。そして寝坊をした。連休中はスマホのアラームを切っていて、それを設定するのを忘れてしまっていたのだった。とはいえ、いつも弁当の準備に加えて早めに着くよう起きているのであって、更に勤務先は近いため、運良くそれでも充分間に合う時間ではあった。しかも雨ときた。自転車が使えないので仕方が無く歩いて出勤していた。
 今日、奄美諸島での梅雨入りが報道された。まだ五月も入ったばかりで梅雨というにはこの地域は早すぎるけれど、今朝はしとしとと地味な雨で、梅雨を彷彿させるようなじっとりとした天候だった。どことなく空気は灰色で、建物も道路も色褪せているような視界だった。雨、とりわけ梅雨の時期は紫陽花がきれいなのと誕生日が被るので嫌いではないのだが、今はまだ梅雨ではないし、タイミングがタイミングなだけに、寝坊をしたこともあったということもあって足早ながら、あらゆる憂鬱を抱えてやや俯き気味に出勤していた道すがらのことだった。
 灰色でどよんとした空気の中、ぱっと目につく柔らかなオレンジ色の花が道端に咲いていた。およそ十輪といったところだろうか、ひっそりと、空き地のはじっこの方、アスファルトの隙間から伸びていた。雨に打たれ、雨水が重たげに覆い被さって花はどれ草臥れたように下を向いていた。それでもその色は、雨で洗われているかのように、優しげで印象深いものだった。
 世に言う雑草の類であることは容易に想像がついた。ひなげしだろうかと思った。こんな住宅街の道で。
 前述した通り寝坊をした身だったし、足を止めて観察するほどの時間の余裕も無ければ、ロングスカートを履いていたのでしゃがみ込んで汚れるのも嫌だったし、人気が少ない道とはいえ職場が近づいている中なんとなく気恥ずかしさもあったので、写真は撮らなかった。けれど下向きの気分、下向きの視界に紛れ込んできたそれは自分の胸にも色を残していった。
 帰ってからもまだその絵が記憶に残っていたので、調べてみた。

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 恐らくこの花だ。「ナガミヒナゲシ」「長実雛罌粟」。四~五月で時期も被るし、この淡赤色、同じ見た目をしていた。ひなげしってこんな漢字なんだな、可憐な見た目と違って難しげ。写真のひなげしはすっくとどれも天に向かってまっすぐ伸びているけれど、私の見たものはどれも俯いていて、写真を見ればやはり茎は繊細に細く、確かにこれでは雨水の重みに耐えられないことが窺える。
 どうやらネットで調べてみると容姿とは裏腹にかなり悪評高い野草らしく、繁殖力が非常に強いらしい。駆除対象として指定されているわけではないけれど、爆発的な拡散力で日本の野草を駆逐してしまう恐れがあるそうだ。一方で、見た目は可愛らしいので観て楽しむために園芸している方もおられるらしく、その気持ちはよくわかるような気がする。私はガーデニング関連にはひどく疎く大きな興味も無いのだけれど。ただ、かわいい顔して危険で腹黒いと断罪してしまうには勿体ないと思ってしまう。甘いだろうか。恐らくあの雨の中、連休明けの朝、灰色の空気、いろんな要因の中で佇んでいて見つけてしまった妙な偶然がそう感じさせてしまう部分もあるのだろう。
 辞典の写真やネットで写真を見ると、あの時少しでも足を止めて写真を撮っても良かったかもしれない、とも思う。
 ならば明日は同じ道を使って写真を撮ろうか、などと考えて天気予報を確認したら、明日も明後日もどうも雨が続くらしく、その後も曇りが続いて、五月らしくない、梅雨入りもしていないのにどうも梅雨に入ったような天気が続く。雨水に打たれているナガミヒナゲシはそれはそれで風情があったのだけれど、どうにも雨だと早く室内に行きたいという気持ちが先行してしまいそうだ。寝坊せず、気持ちが向いたらスマホでも取りだそうと思う。とりあえず、明日はズボンを履いていこう。
 特に意味はない、ただの日常のはしくれ。地元に比べて建物の背が高く密集しているために空が遠く、つい下の方を見てしまうけれど、偶にこんな出会いもあることを思えば、別に地上だって悪くはない。そんなことをこの地域に来てから何年、今更のように気付いたのだった。
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 ところでこのナガミヒナゲシが載っていた本は「草の辞典」というもので、装丁はもちろんのこと文庫サイズで全体的に可愛らしいのがツボなのだけれど、中身の、写真と脚注も春夏秋冬で分けてあり、七草粥などコラムも挟まれていて時折読むと安らぐ。これも昨日記事に書いた「美しい日本語の辞典」と同じく手持ち無沙汰感は否めないのだけれど、こういう時に手元にあってくれると助かる。辞書って、まあ、読み物としてぼんやり眺めているのも楽しいんだけど、そういうものなんだよなあ。同じシリーズで「空の辞典」とか「水の辞典」とか「星の辞典」とかも確かあったんだけど、いつか購入してもいいかもしれないと検討するくらいにはそれらも素敵だった。
 本屋で見かけたら試しに触れてみてほしい。おすすめです。

0506「美しい日本語の辞典」

 ゆる書写ワンドロを相変わらずひっそりと続けている。
 一方で、「美しい日本語の辞典」という辞書を持っているのだけれど、その中で目に入ったものを書写してみるという試みを始めてみた。これは比較的最近(といっても二、三年程前だろうか)買った辞典で、首都編を書いている時にもいくらかお世話になったものだ。そのタイトルの通り、数々の美しい響きの日本語が収められ、眺めているだけで楽しいものだ。「後生に残したい日本語」の項目では内容問わず幅広い言葉を収録し、「自然を共として」の項目では雨・風・雲・雪・空など自然を表現した日本語が、「擬音語・擬態語」ではその名の通り数々の擬音語擬態語が載っている。ただ、一応机の右側、すぐ手に取れる場所には立ててあるものの、本格的な執筆作業より遠のいてからはあまり開くことがなかった。良い本なのだけれど手持ち無沙汰感が否めずどうしたものだろうと思っていたのだけれど、このたび久しぶりに手にとって雨の名前より「青梅雨」とその説明文や引用文を書き記してみて、すっと涼やかな水が自分を通り抜けていったような気分。紙がMDノートでほどよい抵抗感とか音とか、非常に書き心地が良くて楽しかったということもあるのだけれど、日本語とは良いものだと実感する。

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 この辞書、薄くて使いやすいしお値段も二千円+税とそれほどぶっ飛んだ値段ではないので、おすすめです。