0630「こころの余白について」

 たとえば言葉に詰まるとき、たとえば息が詰まるとき、たとえば頭の中が白くなるとき。
 たとえば人に優しくできないとき。
 こころに余裕が無いなあと思う。ここ数日、特に先週から、心がやたらとざわついていて、その行き所が無く、正体もこれだというはっきりしたものが見つからぬまま、縋り付くように生きている感覚。
 自分が、ちょっとしたことですぐに頭の中がオーバーフローしてしまう性質であるということは知っている。目の前しか見えてなかったり、周りが映っていなかったり、と思えば周囲の視線や声がよく聞こえてきたり、そしてそれが気になりすぎてしまったり。世の人たちは息苦しいときをどうやってやり過ごすのだろう。日々評価の目に晒されているというのはストレスだなと思う。心を強くしていくのにある程度のストレスは必要だけれど。
 表面だけの会話ばかりを繰り返しているような気がする。薄っぺらい時間の中を忙殺されて。
 自分への愛情だったり、或いは他者への愛情だったり、欠けた状態のまま、割れた状態のままでいる感覚。
 こころに余裕が無い。なら今このこころを満たしているものは一体なんなのだろう。
 やさしいひとになりたいね。
 やさしくなるには、こころに余白が必要だなあ。


 というささくれた心境に沁みる宇多田ヒカル
 新しいアルバムを聴きながら。
 SONGSを観た直後。感情を掬う美しい日本語。
「頑張らなきゃ」ではなくて「まあ何はともあれちょっと一息つきましょうや」と自分に言ってみる。
 きっと大丈夫。
 息を吸う。


 六月が、終わる。

0624「書写でお茶を濁す」

 なんらかの情報を発信したいという気持ちなのだけれど、気ばかりが焦っている感覚で、びっくりするほど頭の中にブログとして文章化するようなことが浮かんでこないので、ここ最近の書写で誤魔化そうと思う。前回ブログで書写を出したのが5/16だそうなので、それ以降に書いたものを。一ヶ月以上……とはいえさほど数をこなしているわけではなく。でも地味に、思い出したように続けている。

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 書写用に使っているMDノート、余白も豪快に、のびのびと勿体ないくらいの感覚でページを使っているのだけれど、その余白感が心地良い。丁寧に書いた自分の字は自分でも割と好きなので、美しい文章をそうして自分の字で綴り残しておくと、ふと見返した時に気分が少しだけ向上する。すぐに取り出せるように、机の上に立ててある。
 じわじわと続けて、今年が終わる頃にはどのくらい埋まっているだろう? 一冊使い切ったらちょうど良い感じになるなあ。まあ、気ままにやります。

0619「今取り組んでいる創作について」

 当初の予定だともっと具体的に進んでから明かすつもりだったのですが、思うところがあり、もうここで言ってしまおうかと思います。
 基本的にとりとめもない日常について記しており果たして創作の方は一体どうなっているのか、やっていないのか、と言われると、まあ正直なところ割とついこの間まではできていなかったんですが。
 先日のブログで書いた何を現実的なものにしつつあるのか、について。二点あります。正直ブログなんていうのはごくごく限られた誰かしか見ていないと思うので、軽いネタバレを覗く気分で読んで欲しいのだけれど。

 一つ。静寂の声の製本。
 二つ。まっしろな闇全体の加筆・修正。
 今はこの二つを同時進行で進めています。

 旧ブログで触れましたが、今年の目標は「まっしろな闇の更新」「静寂の声の製本」「まっしろな闇OPイメージの下書き」です。
 六月に入り今年も折り返し地点に入ろうとしていますが、何一つ目標は達成できていません。仕事が忙しいと言ってしまえばそれまでですが、目指すは創作と仕事の両立。現実が第一優先ではあるので趣味は二の次になってしまうのは致し方ないとしても、流石に目処を立てないままでは創作が完全に疎かになる危機感を持っていました。優先事項を大事にするのはマルチタスクをこなすうえで大切なことだけれど、好きなことはやらないと、人生きらめかない。
 なので具体的に目標を定めることにしており、六月の目標の大きな一つが静寂を本にしてしまおうというものです。
 静寂の本の進捗は、元々原稿がほぼ完成しているのが大きい。とはいえ数年前の文章になりますし読み返して加筆・修正を加え、製本用に本文ページ、中の表紙ページまでは作り上げています。印刷所についてはまったく無知なのですが、一応ワンブックスさんに頼もうと考えており、現在紙の見本を取り寄せているところです。そこまでやるべきかはやや迷いましたが、折角なので拘りたいというところもあるし、実際に手にとって確かめてみたかった。数日中に届く予定なので、それを確認次第、表紙と本文の紙を決定→背表紙の厚さが決まるので(言うてどれにしても大して変わらんでしょうが)、表紙も作成。およそラフはできておりあとはサイズをどうするかが問題なので、すぐに用意できるはず。一番の鬼門であるはずの本文が出来ているのは本当に大きい。
 旧ブログでも話したかとは思いますが、静寂の本については自分から自分へのご褒美、プレゼント、趣味を続けてきた記念品の類と考えているので、複数作る予定はありません。マイセルフワールドをとことん突き詰めていくスタイルになりつつあります。
 初めてなので不慣れなことばかりではありますが、一歩一歩実現に向けて近付いています。完成したら当ブログにも載せますので、どうぞよろしく。

 もう一つのまっしろな闇の加筆・修正について。
 これも旧ブログで触れたことですが、自サイトのまっしろな闇ページを新しくするにあたり、本文も一度テコ入れすることとしました。
 なにしろ十年近くも前の文章であり、自分でもあまりの未熟さ・恥ずかしさに読み返せない・読み返すのに無駄に時間がかかるという事態がかなり長らく続いていました。過去を振り返られる人と振り返られない人がいるかとは思いますが、私は後者のタイプです。自分の書いた文章がいつまでも自分の好みとは限らないし、創作というのはなんというか、楽しい・人生を潤す趣味であると同時に、黒歴史を量産しながら続けているものでもあるという自分のある種の戒めもあるので……。
 これだけ長く続いている作品ですので今更新規の人に開拓してもらいたいという思いからではなく(勿論読んでいただくにこしたことはありませんが)、自分が好意をもって読み返せるようにするため、また未熟と解っていながらそれを修正せずに公開しているのもどうなのかという自問自答の末それならば直すべきだろうと至ったから、というのが主な理由です。加筆・修正したいというのは何も突飛な発案ではなく、自分の中ではずっと渦巻いており、ただそれよりも前に前に書き進むことが必要だと感じていました。修正を進めている今もその後ろめたさはずっと抱えています。昨年度までの現実との戦いが終わり創作に戻り更新をしたいと豪語していながら、有り難いことに待っている人がおられながら、足踏み・寄り道どころか逆走している状態はいかがなものだろうと。
 ですが、思っていた以上にその新しい自サイト用のしろ闇ページが美しく仕上がりそうなので、それに見合うだけの本文にしたい。自サイトのページは拍手も感想欄も無い、ただの自己満足のページに過ぎません。しかし自己満足など今に始まったことではありません。
 趣味だからこそ熱心に取り組みたいし、大切なものだからこそ妥協はしたくない。黒歴史を量産しているといっても、少しでも人に見られて恥ずかしくないものでありたい。何より自分が満足するものにしたい。最初から、最後まで。
 そういうわけで、今、ウォルタ編から一話一話、苦しみながら推敲を進めています。やっているとよくわかりますが、びびるほど文の粗が目立つんですね。ウォルタが一番時間がかかります、間違いなく。なら修正後は良いものかと言われるとわかりませんが、少なくとも今の自分が納得できる形には仕上げるつもりでいます。
 前回ブログ記事で推敲について触れたのは、静寂の本文としろ闇の本文、両方です。本文では静寂はケリがついたので今は殆どしろ闇一本。
 昔の文章に愛着が無いわけではありません。未熟ではあるけれど、当時の私が作り出した本気の文章ではあるはずだから。そのありのままを完全に消してしまうのは私としても寂しいので、サイトで元の文章は残しておくつもりではあります。しかし、新しいしろ闇のページおよび各ポケモン小説投稿サイトに載せているものに関しては修正する予定です。
 これについて良いか悪いかはわかりません。いつまで読者様が待っていてくださるか、自分の創作の熱がいつまで保つかわからないのだからさっさと進めるべきかとも思いますが、一度ここまでの物語をきちんと振り返るついででもあります。
 伏線に関しては勿論余計に増やすことも減らすこともせず、昔の文章を生かしながら、より良い作品にする。
 端から見れば停滞状態であることに変わりはありません。しかし、私の中では進んでいます。後半になればそれほど手はかからなくなるだろうと自分を信頼してはいるものの、百話に目を通し一つ一つ直していく作業は小説書きを囓っている人ならばその苦労は伝わるのではないかと。無理のない範囲内で予定を立てたところかなり長いスパンでの話になりますので余計にこいつ何も創作せず日々仕事ばっかりしてるんだなと思われるんでしょうが、水面下でこつこつと進めていく予定です。その分、更新分も含めて更に読みやすく面白い読み物にしていけるように尽力いたしますので、ご理解、応援していただけましたら幸いです。

 以上の件について、ブログ以外で話すのはそれこそポケノベ掲載分等を修正する時やツイッター等に戻った時(戻るかわからないけど)になるかと思います。
 そういうわけで実は静かに野望を進めている最近です。ところで本日誕生日を迎えました。わーい。それでは皆さん、今週も頑張っていきましょう。

0615「具体的なことはもう少し形になってから話したい創作のことちらり」

 昨日は紫陽花観に行ったりいろいろ動き回って二万歩近く歩くなど数字が証明するレベルにはアグレッシブに過ごしたので今日は一転してゆったりと過ごしたのだった。仕事関連の課題なども昨日のうちに済ませたのは今日を創作一色で過ごすためだ。なんだかんだ予定が入ったり他にやらなければならないことがあったりして創作に注力できない日々だったのだけれど、今日は久しぶりに一日かけて書き物など進めていた。うんうんと唸りながら。
 このブログを読んでいるような人の大半は恐らくポケノベ関連だと思われるのだけれど、あなたはどの段階が一番苦手ですか? プロットとか(ノンプロットの人もいるけれど)、初稿執筆とか、推敲とか、段階はいろいろあるけれど。といっても大きく分ければこのくらいか。私は断然推敲が苦手だ。勿論一から書き上げるのも筆が乗らなければ辛いものなんだけれど、無から作り上げていくのは勢いでなんとかできる部分もあったりして、何より筆が乗っていればトリップできそうなくらい夢中になれるからその瞬間ほど楽しいものは無いと思っている。
 推敲の、文章を整えていく作業の面白さについて、首都編を書いている時に結構和解できたと思うのだけれど、割とそうでもないと気付いたのが今日。そもそも沸いてくる言葉の質も量も軽くて、自分に失望するというか、なんだか嫌になってしまったりもする。こういう時の特効薬は往々にして読書なのだけれど、今日はとにかく進める日にしたかったのでインプットはほどほど。
 それでも予定を立てたり実際に進めたりして、宙ぶらりんになっていたことがようやく地に足をつけられて、現実的なものになりつつある。決してのっているわけではないからゆっくりではあるしうまくいかないこともあるのだけれど。今日は大きな数歩を踏み出すことができた。はなまる! こそこそと、わくわくすること、しているんだぜ。現実のことも頑張りながら、やるべきことをきちんと優先させながら、無理せずやっていきたいぞ。おう。


 全然関係ないですが、はてブの制度が未だよくわかっていないのだけれど、スター(記事の下にある「★+」ボタン)が拍手やツイッターのいいねのようなものだったりするらしい(違うかもしれない)のでぽちっとリアクションがあるとブログに限らず創作や生活のモチベーションに繋がったりするかも。かも! コミュニケーションをほぼ完全に断っている身なので乞食行為はおこがましいけれど、一応。コメントはもっとお互いに面白いことに繋がるだろうけど、それもハードルが高いでしょうから。わかるわかる。
 はてブ、思いがけずアクセス解析機能が無料で実装されているので、誰かが見てくれていることは把握しています。ありがとうございます。ゆっくりぼちぼちやります。

0614「紫陽花寺」

 昨日ちらと予告していた通り、紫陽花、観に行ってきた。場所は京都宇治にある三室戸寺。以前躑躅の時期に参ったことがあるだけれど、紫陽花で向かうのは初。別名紫陽花寺と呼ばれている(らしい)ほどの名所で、なんと一万の紫陽花が植えられているとかなんとか。写真の様子を見ているとなんとなく昨今のSNS映えを意識したような雰囲気がちょっとミーハーっぽさも感じて迷ったけれども、自分の目で見てみないことにはなんとも言えないのだし偏見はいけないなと思って向かった。
 時期としては最高の時期だったように思う。見頃も見頃。今年は桜もちょうど一番良い満開時期に花見できたし、花関連の運が良い。しいていうのならば紫陽花にはしとしととした雨や曇り空ぐらいが日光の加減が抑えられて良い具合なのだけれど、今日は良いか悪いか晴天で、少々日が眩しかった。けれどそれも歩いているうちに少し曇ったり、日が強い分影は濃かったりしていたので許容範囲内。
 見頃でしかもかなりの有名どころなので、平日の昼間とはいえ観光客がどれほど来るか想像つかず、朝の九時頃に到着。それでも予想していたよりも多かったけれど(平日休みの私が言うのもなんだけれど何故平日なのにあれほど人がやってくるのか不思議でならない)、写真には殆ど写らないようにタイミングを図れるくらいには人がいなかった。人も少ないことだし参拝してからじっくりと堪能。写真は二百枚くらい撮っていたそうで、あとは言葉もいらない、写真をいくらか載せる。適当に選んだので似たようなものばかりでも勘弁。今日は縦に長いぞ。なので続きからどうぞ。

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0613「地味に続いている習慣の種」

 本題の前に長らく続いている例の道端に咲くひなげしについて。
 一週間前くらいのことになるかとは思うのだけれど、あのひなげしはとある日忽然と姿を消した。刈り取られたか抜かれたか、とにかく根元からきれいさっぱり消えてしまったのだった。以前言ったようにあれは雑草の一種なのだからそうなることもおかしくないのだけれど、それなりに少し寂しい思いを抱えながら今も同じ道を通っている。となれば、前急いで撮った写真は雑ではあるけれどある種貴重なものになったのかな、などと。
 梅雨は嫌いではないのだけれど、曇りやしとしと雨が続いて空気が湿り灰色がかっているような雰囲気の中で、柔らかなオレンジがいい感じに映えていて美しかったのだけれど、仕方の無いことだ。この話題もようやくここで一区切りがついたというところだろう。

 生活がそれなりに一変して二ヶ月以上が経ったわけだけれど、地味に続けていることが二つある。
 一つは弁当。もう一つは家計簿だ。
 弁当は相変わらず週末に一気に作り置きのおかずを作って朝に詰めるだけという楽ちん行為をしている。おかずを作った直後に食べるたびにやはり調理してすぐのものが美味しいなどという超絶当たり前のことを実感するのだけれど、朝の時間をいかに短縮できるか、面倒臭がりで朝が苦手な私には重要事項なのだった。流石に二ヶ月もやっていればそれなりに手先も慣れてきて、詰めるだけの弁当は五分くらいで作り終わる。
 弁当を作ることによる節約は功を奏していると、それこそ家計簿を見ていると思う。具体的な金額を出すような気にはならないけれど、それでなくとも飲み会や遊びなんかでどかんと食費の支出が出ることもある。弁当に助けられてるという現実があるからこそ続けなきゃなあと思うし、実際やっていて割と楽しくやっている。料理自体はそれほどレパートリーがないのだけれど、ネットとか本で見たレシピを実践するのは楽しいことだ。弁当に使えて、自分のできる料理のレパートリーを増やしたい。

 

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 家計簿は今アナログでやっている。家計簿専用ノートとかではなく、ただのキャンパスノートを採用。まさかいつだったか使わずなんとなくでとっておいたB5ノートが使われる時が来るとは思いもせず。この思いっきり「家計簿」とでかでかと書いてしまったのがあまりにもクソダサくてやってしまった感ではある。しかも今気付いたけれど誤字をしている。なかなかに恥ずかしい(といいながらブログ画面の華やかさ(?)のために写真を載せるという自傷行為)。
 レシートを貼り付けてその日の支出をマンスリーページに書いているくらいのものなのだけれど、二ヶ月も続いたのは初めてのような気がしてならない。何が自分の中でしっくりきたのかよくわからないけれど、自分の稼いだお金の管理そのものであるししっかりしたがるということなのだろうか。そういうことなのだろう。これも案外に楽しい。何にそんなに使ってしまったのか、何が無駄な買い物だったのか、後から振り返られるのはやはり便利。スマホアプリも以前試していたけれど結局定着しなかった。スマホの、円グラフとかで内訳が表示されるのはスマホならではで、良さでもあるんだけどね。私にはいまいち合わなかったなあ。これはどこまで続くかな。まあ時々サボるけど。無事に続いてノートを変えられたらその時はせめて家計簿の文字は考えて書こうな。

 そういうわけで以上の二つが新生活始まって以来続いている。どちらも学生時代まではまともに続いたことがないし得意分野ではないはずなのに、不思議だね。一種の義務感があるからだろうか。これからも続けていきたいな。新しい習慣ができると、自分自身が少しだけでも変わることができたような、そんな気分になれるから。
 ところで明日は休みです。明後日も休みです。二連休なので、やらなければならないことの皺寄せはこなしたいしやりたいことを一気に進めたいし、今の時期なので紫陽花を観に行く予定です。写真等お待ちを。明日も仕事あるいは学校の方、がんばってくださいまし。私はここ最近疲れて荒み気味だったこころを癒してきます。一日一日を、大切に過ごしたい。楽しみ。

0605「さよなららくがきたち」

 今日は休みだったのでこまごまと掃除などしていた。大分暑苦しくなったのでカーペットをしまったり夏布団を出したり。
 机の下にキャスター付きの引き出しワゴンを備えているのだけれど、この中の整理に着手したのが大きな一歩だった。ごちゃごちゃとしていて整理したいとずっと考えていたのだけれど、ようやく。
 ここに何が入っているかというと、まあ様々に適当にとりあえずしまっておこうと放り込まれたものが入っていて、文房具からポケットティッシュに常備薬にネックレスにゲームカセット等々かなりカオスなことになっておりこんなことを言うといかに私が整理整頓が苦手かが露骨にばれてしまうのだけれど、とにかく私は片付けが苦手だ。掃除をしてもすぐに散らかしてしまう。床にものをちりばめてはそのまま放置するし机の上にはどんどん物が積まれていき雪崩が起こり目も当てられない光景になる。
 しかし幸運(?)なことに実は「捨てる」ことは得意、というか好きで、いざ捨てるとなると自分でも引くほどなんでもかんでもとにかく捨てる。冷めた性格だからなのか物に対する執着も薄い。話題のミニマニストほどドシンプルな状態にはできないのだけれど、物はできるだけ持たない方が美しいとは思う。
 前置きが長くなったのだけれど、そうして割となんでも捨てる私が今回迷いながらも捨てることを決意したのが、クロッキー帳だった。
 ワゴンの大きい引き出しは絵関連を入れている。絵具やパレットはもちろんのこと、スケブ、そしてクロッキー帳。
 殆どが自作のらくがきで埋まっているのだけれど、絵を描くことは好きで、らくがきであっても自分の描いた絵には愛着はそれなりにあって、ずっと描きためたまま引き出しの中に入れていた。時々見返していたりもした。それを捨てることにした。一番の理由は引き出しがもう何も入れられないくらいいっぱいになってしまっていたことが大きい。むしろ昔の絵を捨てるつもりでワゴンに着手したのだった。四冊くらいあったのだろうか、全部思い切って捨てたのだった。バレンタインなどのイベントものとか、簡単な漫画とか、誕生日絵とか、自作に限らず他ジャンルの絵も入っていたけれど、別れることにした。本当は昔のスケブも捨てるつもりだったのだけれど、色まできちんと塗ったそれを捨てるのはなんだか心苦しくて、それはできなかった。所詮はその程度の断捨離。けれどクロッキー帳を捨てただけでも私にとってはとても大きい出来事だった。他にもコピー用紙に描いたらくがきなどもばっさばっさと捨てた。寂しくない、わけではまったくないのだけれど、それほどめちゃくちゃ傷ついてもいないのは、不思議。今日は捨てられなかったスケブだけれど、いつかきっとこれも捨てられるようになる。どんどん、希薄になっていって。
 支部とかで、公開した作品を削除する人がいる。ずっと、なんでそんなことをするんだろう、と思っていた。少し違うけれど、なんとなく今はその気持ちもわかるような気がする。
 いらない、と判断したものを捨てて余裕ができた場所に、今度はどんなものが入っていくのだろうね。今やっている積み本消化もそう。新しいものに手を出す前に、古いものに片を付けることも、時には必要なのだ。